用語解説

312 ~ 316

ここでは証言の中で使われた用語について解説します。


赤紙(あかがみ)

兵役義務者の召集令状(「充員召集令状」「臨時召集令状」等)のことで、赤い用紙だったことから赤紙と呼ばれました。

 

赤トンボ(あかとんぼ)

九三式中間練習機などに代表される海軍の練習航空機の俗称。

 

縁故疎開(えんこそかい)

親戚や知人など縁故者を頼って疎開すること。鈴鹿市内では都市部から縁故疎開して来ることが多く、集団疎開はあまりありません。

 

掩体・掩体壕(えんたい・えんたいごう)

飛行機を敵の攻撃から守るための小型格納庫。コンクリート製や土製などがあり、通常かまぼこ型をしていますが、無蓋のものもあります。市内では三畑のコンクリート製掩体が国の登録有形文化財に登録されています。

 

海軍記念日(かいぐんきねんび)

5月27日。日露戦争の日本海海戦勝利の日にちなんで制定されました。鈴鹿海軍航空隊ではこの日に下宿の人たちなどを航空隊に招く催しが開かれ、戦時中の楽しい思い出の一つとして語る人も多くいます。

 

学童疎開(がくどうそかい)

昭和19年(1944)よりはじまった都市部の国民学校3年生以上の集団疎開。学校ごとに行われました。鈴鹿市内での受け入れはあまりみられませんが、亀山では名古屋などからの学童疎開を受け入れていました。

 

学徒動員(がくとどういん)

戦争拡大に伴う労働力不足を補うために、おもに中等学校以上の学徒を軍需工場などへ動員しました。昭和18年(1943)の「学徒戦時動員体制確立要綱」などにより実施されました。市内の中学校・中等学校・国民学校高等科の生徒は鈴鹿海軍工廠をはじめ、市内の工場、四日市や津などの軍需工場へも動員されています。

 

亀山実業学校(かめやまじつぎょうがっこう)

亀山町立実業学校。三重県立鈴鹿高等女学校と合併し亀山高等学校となりました。

 

亀山師範・亀山女子師範(かめやましはん・かめやまじょししはん)

三重県女子師範学校(1901-1934)のちの三重師範学校女子部(1934-1949)が亀山市本町に置かれていました。亀山に置かれたことからこう呼ばれたようです。

 

雁部隊(かりぶたい)

第二鈴鹿海軍航空基地に配備された第1001海軍航空隊の通称。航空輸送部隊。

 

河芸高等女学校(かわげこうとうじょがっこう)

大正9年、郡立河芸高等女学校として開校し、同13年三重県立河芸高等女学校となりました。終戦後、昭和23年(1948)に神戸中学、鈴鹿市立高等女学校、同工業高校と四校統合して三重県神戸高等学校となり、昭和25年(1950)三重県立白子高校となりました。

 

艦載機(かんさいき)

戦艦や巡洋艦などに積まれた航空機のこと。

 

神戸中学校(かんべちゅうがっこう)

大正9年、三重県立神戸中学校として開校し、昭和23年(1948)に鈴鹿市立高等女学校、同工業高校、三重県立河芸高等女学校と四校統合して三重県神戸高等学校となり、昭和24年(1949)三重県鈴鹿高等学校と改称、同25年(1950)三重県神戸高等学校となりました。

 

神戸町立実科高等女学校(かんべちょうりつじっかこうとうじょがっこう)

大正14年に本科2年・補習科1年で開校し、昭和6年(1931)に4年制となり、同18年(1943)に鈴鹿市立高等女学校となりました。

 

機銃掃射(きじゅうそうしゃ)

航空機に搭載された機関銃によって上空から目標物を攻撃すること。列車や人などが標的となることが多くありました。

 

気象連隊(きしょうれんたい)

昭和17年に石薬師に設置された陸軍第一気象連隊。

 

北伊勢飛行場(きたいせひこうじょう)

鈴鹿市広瀬町から亀山市野褒野町にかけての一帯におかれた陸軍の飛行場。昭和16年に岐阜陸軍北伊勢分教場、昭和18年には陸軍明野飛行学校北伊勢分教所になりました。防空戦闘機隊第100飛行団などがおかれており、また特攻機の整備なども行っていたようです。

 

旧制中等学校(きゅうせいちゅうとうがっこう)

旧制中学校や高等女学校、農学校・工業学校・商業学校などの実業学校など学制改革以前の中等教育機関の総称です。甲種(高等小学校卒業)と乙種(尋常小学校卒業)とがありました。

 

強制疎開(きょうせいそかい)

空襲による火災の類焼を避けるため、強制的に建物を取り壊すこと。建物疎開とも呼ばれました。鈴鹿市内では白子などで行われました。

 

勤労奉仕(きんろうほうし)

昭和19年(1944)の学徒勤労令以前から行われた学徒の自発的な奉仕作業。おもに応召遺家族への農繁期の手伝いが中心でした。

 

軍属(ぐんぞく)

軍人以外で軍隊に属する人のこと。海軍工廠や航空廠の庶務・会計などの事務員や工員など技術者の一部がそれにあたります。

 

訓導(くんどう)

旧制小学校(尋常小学校・国民学校)の正規教員のこと。

 

高角砲・高射砲(こうかくほう・こうしゃほう)

航空機などを地上(水上)から迎撃するために設置された火砲で、鈴鹿海軍工廠および海軍航空隊の周辺に複数設置されていたようです。

 

高等小学校(こうとうしょうがっこう)

尋常小学校を卒業した後に入学する初等教育機関で、義務教育ではありませんでした。昭和16年(1941)の国民学校令以前は尋常小学校に高等小学校を併設し尋常高等小学校とされることが多く、国民学校令以降は国民学校高等科となりました。

 

高等女学校(こうとうじょがっこう)

旧制の女子中等教育機関。鈴鹿市内では三重県立河芸高等女学校と鈴鹿市立高等女学校がありました。高女と略します。

 

国防婦人会(こくぼうふじんかい)

昭和7年(1932)大阪で結成された婦人団体。同年末、大日本国防婦人会として全国組織に発展し、出征兵士の送迎、傷病兵・遺骨の出迎えなどを行ないました。市内でも地区ごとに団体があったようです。

 

国民学校(こくみんがっこう)

昭和16年(1941)の国民学校令により尋常小学校は国民学校初等科(6年制)、高等小学校は国民学校高等科(2年制)となりました。

 

在郷軍人(ざいごうぐんじん)

現役で軍に属していない軍人(予備役・帰休兵・退役軍人等)のことで、有事の際に召集集される義務がありました。退役軍人を中心として各地に在郷軍人会が作られ、学校での教練や出征兵士の見送りなど軍事後援を行っていました。

 

女学校(じょがっこう)

この証言で使われる「女学校」は、旧制高等女学校のこと。

 

女子師範(じょししはん)

女子教員を養成した旧制の学校。三重県では現亀山市本町に置かれており、亀山師範などとも呼ばれていました。昭和18年(1943)三重師範学校女子部となり、戦後三重大学学芸学部に継承されました。現在の教育学部。

 

白紙(しろがみ)

徴用令書。

 

尋常小学校(じんじょうしょうがっこう)

旧制の小学校。初等普通教育を施した義務教育の学校です。昭和16年(1941)に国民学校令が施行され、尋常小学校は国民学校初等科となりました。鈴鹿市内では旧各町村にそれぞれ置かれていました。

 

新制中学校(しんせいちゅうがっこう)

戦後の昭和22年(1947)制定の学校教育法により発足した中等普通教育を施す学校。修業年限3年で小学校とともに義務教育になりました。

 

進駐軍(しんちゅうぐん)

戦後、日本を占領した連合国軍のことで、連合国軍総司令部(GHQ)は東京におかれました。アメリカのダグラス・マッカーサーが最高司令官。サンフランシスコ講和条約で主権を回復するまで日本は連合国軍の占領下におかれました。

 

鈴鹿高校(すずかこうこう)

この証言で使われる「鈴鹿高校」は、昭和24年(1949)に三重県神戸高校が改称された学校のこと。昭和23年(1948)に神戸中学、三重県立河芸高等女学校、鈴鹿市立工業高校、同高等女学校の4校が統合して三重県神戸高等学校となり、昭和24年鈴鹿高校と改称、同25年(1950)にふたたび神戸高等学校となりました。

 

鈴鹿市立高等女学校(すずかしりつこうとうじょがっこう)

昭和18年(1943)4月に神戸町立実家高等女学校から改称され、同23年に神戸中学校、三重県立河芸高等女学校、鈴鹿市立工業高校と4校統合して三重県神戸高等学校となります。同24年(1949)に鈴鹿高等学校となり、同25年(1950)三重県神戸高等学校となりました。

 

青年団(せいねんだん)

地域に居住する家業についた若者たちで組織する自治団体。戦時中は出征兵士の送迎や出征兵士の家の農事の手伝いなど戦時体制への協力を行いました。女子青年団もありました。

 

村葬・町葬(そんそう・ちょうそう)

戦没者の葬儀を村(町)で行うこと。公葬。戦争の初期のころは盛大に行われることが多く、人々の記憶にも残っていますが、戦争末期のころには縮小されあまり行われなくなったようです。

 

代用教員(だいようきょういん)

教員免許状を有しない非正規採用の教員のこと。

 

徴兵検査(ちょうへいけんさ)

昭和2年制定の兵役法に基づき満20歳で行われた検査(昭和18年からは19歳に引き下げ)。得業の有無や健康状態を検査され、その結果で甲乙丙丁戊種の5種に分けられました。甲種合格者は現役兵として入隊を義務付けられました。

 

徴用(ちょうよう)

昭和14年(1939)7月に公布された国民徴用令に基づいた国民の強制的な軍需工場への動員。兵役の召集令状が赤紙と呼ばれたのに対し、徴用を命じる徴用令書は白紙と呼ばれました。

 

津高女(つこうじょ)

津高等女学校の略。明治34年(1901) 三重県立高等女学校として開校し、大正11年(1922)に三重県立津高等女学校と改称。昭和23年(1948) 津中学校と津高等女学校が統合して、男女共学の三重県津高等学校となりました。

 

津中(つちゅう)

津中学校の略。明治13年(1880) 津藩校有造館跡に津中学校開校、明治32年三重県第一中学校、大正8年(1919)三重県立津中学校と改称、昭和23年(1948)に三重県立津高等女学校と統合して三重県津高等学校となりました。後に三重県立津高等学校と改称。

 

挺身隊(ていしんたい)

女子挺身隊のこと。戦時下の女子の勤労動員組織で、工場や農村で勤労奉仕しました。志願して行く人もいましたが、多くは強制されたようです。

 

DDT(でぃーでぃーてぃー)

殺虫剤の一種。衛生状態が悪化した戦後の日本に進駐軍が持ち込んだ殺虫剤。ノミやシラミの駆除やチフスの予防などに大きな効果がありました。昭和46年(1971)に日本では全面販売禁止になりました。

 

東南海地震(とうなんかいじしん)

昭和19年12月7日に発生したマグニチュード8.0の大地震。震源は志摩半島沖合で、全国で1200人以上の犠牲者を出し、三重県でも400人ほどが犠牲になり大きな被害が出ました。戦争中でしたので報道は少なかったようですが、多くの人が記憶にとどめています。

 

隣組(となりぐみ)

戦時下、国民統制のためにつくられた地域組織。町内会・部落会の下に属し、近隣数軒が一単位となって、互助・自警・配給などにあたりました。昭和18年(1943)の鈴鹿市内の隣組数は920でした。

 

農地解放・農地改革(のうちかいほう・のうちかいかく)

戦後、GHQの指令で昭和22年から行われた農地制度改革。不在地主の小作地全部と、三重県では在村地主の小作地のうち0.7ヘクタールをこえる分を国が買い上げ、小作者に売り渡しました。

 

久居(ひさい)

久居には歩兵第三十三聯隊を中心に歩兵第五十一聯隊、歩兵第百五十一聯隊、歩兵第百三十三聯隊などの兵営がありました。その跡は、陸上自衛隊の駐屯地として受け継がれています。この証言での「久居」は、地名ではなく、それら兵営を指します。

 

風船爆弾(ふうせんばくだん)

戦争末期にアメリカ本土を攻撃するため日本で考案された兵器で、紙製の気球に焼夷弾をつるし偏西風にのせて飛ばしました。四日市の軍需工場でも学徒を動員して作製にあたらせていたようです。

 

不在地主(ふざいじぬし)

所有する自分の農地の所在地に居住せず、その農地を小作人に貸し付けて小作料や年貢などの収入を得ている地主のこと。農地解放では不在地主の全ての小作地が小作人に解放されました。

 

婦人会(ふじんかい)

戦前の婦人団体は、おもに愛国婦人会、大日本連合婦人会、大日本国防婦人会の3つがあり、愛国婦人会は明治34年、大日本連合婦人会は昭和6年、大日本国防婦人会は昭和7年に結成されました。昭和17年には3団体が統合され大日本婦人会となり、出征兵士の歓送迎、遺家族援護などに活動しました。

 

奉安殿(ほうあんでん)

学校に下賜された御真影(天皇皇后の写真)や教育勅語を安置した建物で、各学校の敷地内に建てられました。学校だけでなく鈴鹿海軍工廠など軍の施設にもあったようです。戦後、GHQにより撤去を命じられ姿を消しました。

 

満蒙義勇軍(まんもうぎゆうぐん)

満蒙開拓政策の一環として、日本から中国東北地方(満洲)に送られた若年移民の通称。正式には満蒙開拓青少年義勇隊。開拓と防備を目的に組織され、おおむね15~18歳の少年が参加しました。学校で勧められた思い出を語る人もおり、全国で30万人近い少年が満州に渡りました。

 

三重海軍航空隊(みえかいぐんこうくうたい)

現津市香良洲町におかれた予科練教育隊。予科練の大量採用に応じて昭和17年に開隊し、翌年には奈良・西宮・滋賀・高野山に順次分遣隊を設置しました。

 

三重師範学校(みえしはんがっこう)

昭和18年(1943)三重県師範学校から官立三重師範学校となり、三重県師範学校は男子部、女子師範学校は女子部として統合された。昭和24年には三重大学が設立され、師範学校は三重大学学芸学部に継承された。現在の教育学部。

 

予科練(よかれん)

海軍飛行予科練習生またはその制度の略称。旧日本海軍で航空機搭乗員養成のために昭和5年(1930)に創設され、14歳から17歳の少年たちが試験で選抜されました。学校で志願を勧めることも多かったようです。

 

レッドパージ(れっどぱーじ)

政府や企業による日本共産党員やその支持者に対する一方的解雇のこと。