軍人と出征

319 ~ 320

 戦争は多くの青年たちを戦地に送り出し、残酷な戦いを強いた。家族や知人に見送られながら故郷を離れ、戦地で戦う彼等は、郷土の人々にとってどのような存在であったのだろうか。『伊勢新聞』には、出征兵士の活躍を伝える記事や兵士の募集・志願の記事が多く掲載されている。

 記事の中には、戦時中に出征兵士から母校や町村長、家族、知人に宛てた陣中便りや奮戦記が掲載されているものがある。昭和13年4月12日(夕刊)に椿村出身の田中林平曹長が、北京での激戦で旧黄河に不時着した下方鶴二曹長を発見し、敵機を蹴散らし見事に救出したことが大きく報じられている。その後、4月23日(夕刊)には神戸町出身の水野幸泰上等兵が闇夜に襲ってきた敵に、とっさに砂をかけ、目をくらませた隙に短剣で刺し殺したという武勇伝が報じられた。他にも出征した兄弟が戦地で劇的な再会を果たすという感動的な話(昭和13年6月19日夕刊)など、戦争が始まって間もない時期には、出征兵士からの便りが数多く掲載されていた。そして郷土に残った人々も、これらの記事を読むことで勇気づけられ、また少年たちには憧れを抱かせたのであろう。しかし、昭和18年頃からは、こうした記事は激減している。

 兵士の募集・志願については、海軍志願兵検査や徴兵検査を知らせる記事が毎年のように掲載された。記事には検査の日時や場所、志願兵の県下割当数、志願数、合格者数、合格率などが載せられている。この記事を見ていくと興味深いことが分かる。昭和14年2月7日(日刊)に、昭和14年度の海兵志願者数が前年と比べて激減していることが報じられた。鈴鹿郡、河芸郡では志願兵の割当が鈴鹿郡60、河芸郡70であった(昭和13年11月10日日刊)のに対し、実際の志願者は鈴鹿郡45(内合格者14)、河芸郡36(内合格者18)であった。こうした状況を鑑みてであろうか、昭和16年5月25日に「海軍思想向上」のために白子町に海軍協会分会が結成されることとなった(昭和16年5月4日日刊)。記事によると海軍協会分会の設立は県下で初めてであるという。この成果であるのかは定かではないが、昭和18年1月23日(夕刊)には、海兵志願者が殺到し、鈴鹿地方は定員数を突破した事が報じられ、一週間ほどした31日(日刊)には鈴鹿の海兵志願者が多く、昨年に比べて志願者の体位・学力の良好であることが報じられた。それ以後も志願者数も多かったことや1人でも多くの優秀人物を送りだそうと、鈴鹿地方事務所が海軍志願者に予備教育を始めたことなどが記事として掲載されている。

 以上は男性兵士の募集・志願だが、女性の志願についての記事も見付けることができる。昭和20年6月17日(日刊)に、鈴鹿郡の国民義勇隊女子隊員の資格に関する記事がある。それまでは50歳までという年齢制限があったが、50歳以上の女性でも病気や活動能力のない者以外は全員が隊員となりうることに決定したというものである。