大陸への移住者

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 昭和初期に日本が現在の中国の東北3省および東部内モンゴルに満州国という傀儡国家を作り上げたことは周知の事実である。この満州国の開拓と防衛を目的として、政府は日本全土から多くの移民を送り出した。それが満蒙開拓団である。このなかには開拓青年義勇軍として移住した若い青年も多く含まれている。彼等の半数以上が現地で死に絶え、戦後日本に戻ってくることはなかった。

 鈴鹿からも開拓移民として多くの人々が送り出されているが、開拓移民に関する記事はそう多くはなく、昭和13年から昭和16年までの限られた時期にしか出てこない。そのなかでも昭和13年2月9日(日刊)の以下の記事に注目してみたい。

疲弊せる農山漁村の更生についてはあらゆる部門を総動員して経更に邁進、経済更生の策が講ぜられつつあるが県下農村漁村中には資源乏しく加ふるに人口の増加で伸張性を失ひ、経更方策の値すべき途なき村もあり県経済更生課では、これ等発展の余地なき農村漁村を調査し人口に比して耕地面積狭小の農村及び資源欠乏の山、漁村等の真の経更を図るべく近く多気郡川添村、三瀬谷村、北牟婁二郷村、鈴鹿郡久間田村の四ヶ村に於て分村計画懇談会を開催、大局的に更生の実行を企画する事になったが、分村計画は単なる隣村への移動ではなく、伸張性を失った各村住民を以て移民団を組織し、満州へ移住せしめる隣保共扶郷土愛の精神に基づき居村を発展せしめるものである

 久間田村などの経済更生村の住民を満州移民にしようと計画されていたことが分かる。このように、農業経営に限界のある村から、住民が次々と満州に送り出されていった。

 昭和13年4月8日(夕刊)には、満州開拓青年義勇軍第2次募集に県下での応募者が76名に上ったことが報じられている。鈴鹿郡からは最も多い12名の応募があった。この応募者は選考で合格すると各地の農場や農林勧修場で内地訓練を受け、7月には渡満した。満州開拓青少年義勇軍は年々拡大していき、昭和14年度には県内で400名の渡満者を出すことが決定された(昭和14年1月14日日刊)。

 更なる義勇軍の拡大を狙って、三重県は各郡市の高等科2年生の希望者に対し、拓殖講習会を実施している。この講習会は河芸郡54名を含む全県1516名に講習が行われ、この内から義勇軍三重中隊350名を募集編成するという(昭和16年8月22日夕刊)。

 こうした満蒙移民を郷土の人々も激励していたようであり、河芸郡町村少年団が廃古レコードを回収し、合計161キロものレコードを寄贈したことが、昭和16年10月5日の夕刊に報じられている。