鈴鹿市は、その成立の背景に陸海軍の多数の軍事施設建造があり、「軍都」と呼ばれた。これらのうち、特に「鈴鹿海軍航空隊」と「鈴鹿海軍工廠」に焦点を当ててみたい。なお、『伊勢新聞』では北伊勢飛行場などの陸軍施設についての記事は、管見の限りほとんど見当たらなかった。
昭和13年12月9日(日刊)には、鈴鹿航空隊の開隊を伝える記事が1面に大きく取り上げられている。翌10日(日刊)には、鈴鹿航空隊で猛特訓が行われていることが、さらに11日(日刊)に練習航空隊に指定することなど、関連する動きが連日報じられた。
鈴鹿海軍航空隊の開隊は住民にとっても喜ばしいことであったようで、航空隊が設置された白子町の江島区に73軒、白子区に21軒、寺家区に14軒の新築家屋が建築され、商店街も活況を呈し、飲食店を筆頭に50余軒の商店が増加したという(昭和14年3月14日日刊)。参急白子駅では乗降客がひと月で18,754人に上り、売り上げは航空隊開隊以前の3倍になった(昭和14年4月16日日刊)。神戸町では航空隊開隊によって人口が膨張し、住宅難に陥り、住宅36戸を新築したことも報じられている(昭和14年5月3日日刊)。開隊に伴い、白子町を中心として大いに沸き立っていたのだろう。
この後も昭和19年まで鈴鹿海軍航空隊に関連する記事が掲載され続けるが、昭和19年の記事には「○○航空隊」のように、伏字を交えた表記になっていることが注目される。
さて、「鈴鹿海軍工廠」に関する記事は、開設された昭和17年の『伊勢新聞』には一切見つけられなかった。この後もしばらく記事にされることはなく、昭和18年になって「鈴鹿○○工廠」や「○○海軍工廠」など伏字で掲載されるようになる(以後、昭和20年まで)。その内容も、ほとんどが海軍工廠で勤労奉仕を行ったというものである(昭和19年2月14日日刊等)。しかし、戦局の厳しさからか、昭和19年頃から他の軍事施設と並んで「鈴鹿海軍工廠軍属募集」の広告が新聞の最下段に掲載されている(昭和20年4月9日日刊等)。募集の内容を見てみると、職種としては男女技術係、守衛、炊事婦員ノ他であり、年齢は満12歳以上であれば年齢問わず、となっている。その他に待遇や給料についての情報が掲載されており、募集地域も鈴鹿だけでなく上野や鳥羽、尾鷲など三重県中から募集を行い、工員の確保を図っている。こうした広告から、当時の鈴鹿海軍工廠が人員不足で疲弊していたことが推測される。