市民と軍事施設

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 戦時中の市民は、軍事施設や軍人とどのような関わりを持っていたのであろうか。市民と軍事施設との関わりとしては、陸軍記念日、海軍記念日における講習会の実施や鈴鹿航空隊の見学などがある。早いものでは、昭和13年3月10日に陸軍記念日を迎えることを祝して、国民精神の振興と国防観念の強化を目的に各地で記念大講演会が開催されることを報じたものがある(昭和13年3月1日日刊)。鈴鹿では8日に白子町で講演会があったようである。また、海軍記念日にも白子町の小学校で青年武道会や軍事映画会が開かれ(昭和13年5月27日日刊)、記念式典では航空隊による「空中分列式」が人々を魅了していた。陸軍記念日、海軍記念日の他、9月20日の航空記念日には模型飛行機飛翔競技会や航空に関する絵画の展示会が開かれていた(昭和16年9月12日日刊、昭和17年9月9日日刊)。

 航空隊では、小中学生や一般市民への隊内の参観を許し、大勢の人々が押し掛けたことが報じられている(昭和14年1月14日夕刊)。また、学生や一般市民だけでなく国防婦人会や、桑名市第三小学校の日団員、松阪市国府神戸分会など他地域からも見学に来ていたようである。聞き取りの証言や記事の記載から分かるように、航空隊の見学は人気を博し、毎回大人子供問わず大勢の人々が押し掛け、隊内の様子に驚きや憧れを抱いたのである。昭和18年6月6日には三重鈴鹿両航空隊に学徒が一日入隊し、鈴鹿航空隊には大阪帝大ほか10校100名が指導講話や予備士官との座談会に臨んだ。記念日や隊内の見学は、行事を楽しむだけでなく、講習会などによって軍事知識を人々に与え、子供たちに対しては軍事教育の一環としての意図もあったのだろう。

 軍人と市民の関わりでは、国府村小学校の児童が毎月戦線勇士に慰問文を送っていること(昭和14年2月27日日刊)や久間田婦人会が慰問袋を自製発送していること(昭和15年7月17日日刊)など様々な慰問・慰安の記事が載せられている。久間田村出身の北川藤正軍曹が同村小学校からの再三の慰問文に感謝し、児童体育費として20円を送金している(昭和13年12月18日日刊)など、慰問・慰安に対する軍人からの感謝もあった。

 また、市民から軍人に慰安・慰問を行うのとは逆に軍人から市民に奉仕する場合もある。石薬師村では帰還勇士が自ら青年学校の指導員を引き受け、軍人思想などを教えていることが昭和15年5月10日(日刊)に紹介され、昭和16年11月30日(日刊)には鈴鹿航空隊員の北向二等整備兵ら3勇士が各人休日に農家に出向き早朝から夕方まで作業を手助けしていることが報じられている。

 このように軍人と市民とは関わり合いを持ち、互いに支えあいながら、厳しい戦局の中を生き抜いていたのであろう。