郷土に残った人々の銃後の生活に関して、特に婦人会の活動、出征兵士の家族や学生の生活が分かる記事を見てみよう。
昭和13年3月4日(夕刊)には、銃後の家庭生活の改善をはかり長期抗戦に備えるべく県農会の銃後家政改善懇談会が各地で開かれ、鈴鹿郡国府村、神辺村でも申し合わせがあったことが報じられている。この申し合わせでは以下の8項目の取決めがなされた。
1.現金支出を少なくしてお互いに土地や村でとれるもので生活を行い冗費の節約を致しましょう、そして記枯生活を必ず実行しましょう
2.旧来の慣習を破りこの際冠婚葬祭の改善を行い経費の節約を実行しましょう
3.なるべく衣服には原料輸入品の綿、羊毛類は事変中だけでも買わないことにしましょう
4.台所改善をはかり自給の栄養食を採り入れ身体の健康に努めましょう
5.ささいのものでも気をつけ廃物の利用をはかり、無駄のないように心掛けましょう
6.応召農家の慰問や勤労奉仕は進んで致しましょう
7.金肥の購入を少なくして自給肥料の増産に努めましょう
8.軍需農産品の増産に努めての供出には進んでお世話致しましょう
婦人会では、この他にも慰問や献金、各種講習会を開くなどの活動を行っていたことが、新聞記事から読み取れる。昭和18年になると、決戦体制として鈴鹿地方事務所が各村婦人の活動の強化徹底をはかり、その成果として(1)婦人常会が各町村で沢山組織され、会員相互の修練が展開されて来た、(2)関町ではこの常会決定により婦人の家庭講座を開き、生活の刷新合理化、婦逼の改善等を始め羊毛、金属の回収運動に、貯蓄増張、木炭増産、薪炭供出の協力等目覚ましいものがあり、(3)久間田村では電力消費節約に努力し一斉に夜間の消灯に努め、(4)野登村安栄、邊法寺両班では貯蓄増加を目指して婦人の力を動員し、おびただしい成積を上げている、と報じられている(昭和18年2月8日日刊)。鈴鹿でも婦人会の活動を通して戦時の家庭内の倹約をはかり、奉仕活動や慰問、増産に努めていたのである。
つぎに出征兵士の家族に関する記事を紹介したい。昭和15年4月22日(日刊)に一人息子を第一線に送り、自分たちは農業に専念し、留守を守っているとして井田川村の田中林助さん一家が取り上げられている。記事の中で林助さんは「息子は名誉ある軍人として第一線に出た事は村民たちに対し私の誉れですから、給与されるものがあれば全部国防献金にして下さい」と語っている。他に、栄村の故陸軍歩兵軍曹西村佐太郎さんの妻ひさのさんが母親と5人の子供を抱えながら必死に生活している様子(昭和17年1月27日日刊)や神戸常盤町の北越鈴子さんが出征した夫に負けじと工場での仕事に励んでいること(昭和18年10月6日)、寺家町田掘かつさんは夫を前線に送り、自分は6人の子供を養育し、食料増産に努めていること(昭和18年1月22日)が報じられるなど、出征兵士家族の奮闘ぶりが強調されている。
当時の学生の生活に関する記事としては、椿村の国民学校で8日間託児所を開催し、職員・児童共に子供の世話をしたこと(昭和16年5月25日日刊)のほか、小学生や中学生が勤労奉仕や国防献金に励んでいる様子が各記事から読み取れる。鈴鹿高女では全校生徒にモンペを着用させていること(昭和16年12月14日夕刊)や4年生100数名が名古屋市の工場で働くこととなり、その工場勧労の余暇に寄宿舎で学業をしていること(昭和19年4月22日日刊)が報じられている。