戦時に際し、国は食糧の確保が戦争遂行の重要事項であると考え、農地の開墾や食糧増産に力を入れた。昭和14年4月には国の方針として初めて戦時食糧増産計画を樹立し、戦時下の食糧対策を明確に開始したのである。三重県でも国の方針に沿って、昭和14年3月に農業指導方針を明らかにし、(1)主要食糧たる米穀の5分増収、(2)麦・菜種増産奨励、(3)畜牛1万頭増殖、(4)肥料及飼料の自給奨励、(5)茶の百万貫生産を目標に掲げている(『三重県史』資料編)。
鈴鹿市域に関しては、昭和14年4月27日(夕刊)に13年度から荒蕪地の開墾が奨励され、すでに高津瀬村が70町歩余りの山林開墾に着手し、今後も深伊沢村、椿村など鈴鹿郡で大開墾事業を計画していることが報じられている。鈴鹿では未開墾地が多くあったのであろうか、農林会による高津瀬村の3年におよぶ開墾事業の実施(昭和14年9月13日日刊)など土地の開墾事業がたびたび行われている。食糧増産に関しても、昭和15年には鈴鹿郡畜産組合が前年から着手した産債千頭増産5か年計画事業が着々と進んでいることや、各地で増産確保のための講習会が開かれていることが分かる。こうした開墾・増産事業に従事したのは農家だけでなく学生や教諭、青年団など多数の人が参加していた。例えば、昭和16年6月1日(日刊)に白子国民学校が荒蕪地3反歩を借り受け児童の手で開墾していることや、昭和18年7月27日(日刊)には青少年食糧増産隊が組織され、鈴鹿郡市から1町以上を自作する農家の長男9名が参加し、内原訓練所で訓練を受けていることが掲載されている。
昭和18年4月15日(日刊)には、36歳で渡米し、遠くハワイで水利会社に勤務していた鈴鹿市甲斐町の薮田卯之助(77)さんについての記事が掲載されている。藪田さんがこの程帰郷し、1反歩の田地を買入れ水稲作付けの結果、反当り8俵の収穫を得た、というもので、薮田さんが増産に参加したことが大きく取り上げられている。薮田さんのように老年で元々農業従事者でもない人が増産に参加し、多大な成果を挙げていることは驚くべきことであろう。
鈴鹿では米だけでなく、甘藷、大豆、馬鈴薯など主食となる穀物の増産が計画され実行されており、その成果は上々であったようである。畜産では昭和15年から鈴鹿(郡)畜産組合の活動が目立ち、畜牛の増産やそれに伴う講習会や品評会が開催されている。農業・畜産の増産の動きは昭和14年ごろを契機として終戦間近の昭和20年6月まで記事で追うことができる。