戦時下の学校

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 戦争は学校生活にも大きな影響を及ぼしたことは想像に難くない。今回、学生や学校に関する記事は戦中のものだけで500件近く見つけることができた。学生の行動に関する記事と、学校を会場として利用した際の記事の2つに大別できる。

 まず学生の行動について、軍事教練や必勝祈願の行軍、勤労奉仕、そして前述の寄付金や献金などの記事が多く見られる。戦時下において、学校で教練の時間があったということはよく知られているが、そのことに関する記事はさほど多くない。しかし、鍛錬の一環としての運動会、相撲、水泳大会などの記事は、戦局が熾烈を極める前の昭和18年頃までは多く見られる。また、武運長久を祈願する参拝は市内に留まらず、津市や伊勢神宮まで行軍していることがわかる(昭和19年1月19日夕刊、昭和19年2月9日日刊等)。

 勤労奉仕は、出征兵士の家の田畑の手伝いや桑の皮剥ぎ作業が主として行われていたようだが、学生による兎狩りが度々行われていることも注目される。昭和13年3月20日の夕刊によると、鈴鹿高等女学校では体育運動と毛皮を軍に献納するために1年生から4年生の約300名で兎狩りを行ったことが記載されている。女生徒たちは兎を狩り立てたが、逃げ回る兎の勢いに押され、体育運動の目的は達成されたものの、毛皮献納の目的は達成することができなかったようである。ほかの小中学校でも兎狩りは行われており(昭和13年12月18日日刊等)、また各小学校が「養兎報国」に乗り出す(昭和15年4月29日日刊)など、兎皮が重宝されていたことがわかるが、太平洋戦争が始まった昭和16年以降は兎狩りに関する記事は激減している。

 次に学校の利用については、戦時下の生活に関する講習会や講演会、研究会が数多く催されたほか、映画会、兵役検査などの会場にもなっており、村葬の場としても利用されていたことが記事からわかる。映画会の記事は昭和17,8年に集中しており、内容は戦争必勝を鼓舞するものから、食糧増産激励、慰問、備蓄奨励の映画会まで多様であった。村葬の記事は、昭和14年11月21日に、ノモンハンで戦死した岡村上等兵について河曲村で小学校を会場に村葬が行われることを報じたものを最後に見られなくなるが、これは太平洋戦争における戦死者の増加により、村葬自体があまり行われなくなっていったことによるものと考えられる。