鈴鹿市は戦時下の昭和17年12月1日に発足し、全国で197番目、県下では7番目の市となった。その成立は陸海軍の飛行場を始め、海軍工廠やその他軍事施設の進出による急激な人口増加などが要因とされているが、そのことは当時の新聞記事の中では直接的には記されてはいない。この頃、軍事施設関連の記事はほとんどなく、あっても特定できないように伏字で表記されていることから、市制施行の背景は公的には隠されていたことがわかる。しかし、鈴鹿市建設に向けた運動の記事自体は数多く見られ、住民の期待の高さも窺える。
鈴鹿市の建設に関する記事で早いものでは、昭和17年4月頃より神戸、白子町を中心に新市の誕生に向けての話が進んでいるということが取り上げられ始める。鈴鹿市発足を間近にひかえた昭和17年11月21日(日刊)では、鈴鹿市誕生までの経緯が掲載された。この記事では「一つの母体を中心に隣接の町村を合併して市制を布くことを原則とされた従来の方式を打破り、国土計画に重点をおき総合的な施設経営を確立し、その将来の飛躍に備へんがために関係町村を連衡、こゝに市制を実施せんとする点は異例であり、そのもつ大きな意味と使命からいへばまさに全国最初の市なのである」と鈴鹿市成立の特異性を強調している。なお、鈴鹿市建設以前には、白子町、神戸町、高津瀬村をそれぞれ中心とした隣接村との合併案があったことも紹介されており、これらの合併案は国土計画に支障をきたす、あるいはその躍進を阻害する可能性があることから、白紙に戻ったという。この「国土計画」というのは、具体的には海軍工廠やその他軍事施設の進出のことを指しており、この記述から鈴鹿市の成立に軍事施設の影響の大きさが読み取れるだろう。鈴鹿市発足当日は、今後の飛躍が期待されているという記事が大きく取り上げられ、市の名勝や機構などを紹介し、市となった喜びが表されている(昭和17年12月1日日刊)。
軍都として発足した鈴鹿市であるが、終戦を迎え、初代市長として戦時下の鈴鹿市を支えた奥田茂造氏が惜しまれつつ勇退し、後任には杉本龍造氏が推されることとなった。杉本氏は市長を務めるにあたって「すみやかに平和産業に転換するとともに、戦時中軍の施設のためつぶされた耕地を農民へ返還するといふ点も睨み合せてゆきたいと思ふ」と今後の抱負を述べている(昭和21年5月15日夕刊)。また依然としてくすぶっている市の解体、分村問題について、市の形態をとっていかなければ市の発展は期待できない、と示唆しており(昭和21年6月7日夕刊)、鈴鹿市としての発展に力を注ぐ方針であることを強調している。
次に分離運動について見てみよう。軍都となる使命を帯びて発足した鈴鹿市は、終戦によりその使命を失っているなどの理由から、市を解体すべきであるという声が白子町で起こった。分離運動は昭和23,4年に激しく行われ、新聞にも連日報道されている。白子地区では鈴鹿市からの離脱の声が昭和22年末から挙がっているという記事があり(昭和23年2月27日日刊)、この記事によると、離脱案の署名が白子区民の約7割の賛成を得たため、区民約600名が白子地区鈴鹿市離脱期成同盟結成大会を開いて具体的な実行運動に乗り出すことになったと報じられている。分離問題は賛成派と反対派とに分かれたため、選挙で決着をつけることとなり、昭和23年12月19日に実行された。翌日の新聞(昭和23年12月20日日刊)には、選挙の様子が報じられ、白子、江島、寺家の3地区で行われた選挙は投票率8割7分強という好成績であり、分離問題への関心の高さが窺われる。分離反対派が一番多いとされた江島地区では投票率も一番高く、病人までが担ぎ込まれて投票する熱心さであったと記されている。選挙は分離反対が2776票を獲得し、票差476票で反対派の勝利が決まり、白子地区の分離問題はひとまず終結となった。白子町の分離運動が活発に行われていた頃、石薬師にも分離問題が起こっていたが、こちらも分離には至らなかった。
分離を免れた鈴鹿市は、その後順調に人口を増加させていく。昭和28年末からは河芸郡天名、合川、栄の3村の鈴鹿市との合併構想が具体化し、この合併で市の人口は約8万人となって、今後の農工都市への発展が期待された。昭和30年1月15日(日刊)には、鈴鹿市内の小中学校の新入生が、昨年に比べ小学校では215人、中学校では36人の増加したことを報じている。当時は戦後の合併と、熱心に行われた工場の誘致に伴った従業員やその家族の転入が多く、人口の増加が顕著になってきていたのであろう。