企業誘致

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 戦後、鈴鹿市の旧軍施設地への工場誘致は広く知られているが、まず戦時中にすでに取り組まれていたという例を紹介したい。昭和18年7月8日(日刊)には、奥田市長が上京し、民間工場の誘致について内務省及び関係方面と折衝を続けていることが取り上げられている。この記事で奥田市長は、関係方面も鈴鹿の有望性を認めて工場設置の意向を十分有していることが明確になったので、誘致運動が必ず近い将来成功するであろうと語っている。戦時中の記事はこの1件しか確認できなかったが、早くから工場誘致に対する積極的姿勢が見受けられる。 軍事施設の転用に関する記事は、戦後間もない昭和20年10月から見ることができる。早いものでは、昭和21年9月に元鈴鹿海軍航空基地がわかもと製薬会社に転用されたが、約2年での閉鎖が決定し、次には鈴鹿電気通信学園が昭和24年5月に開校することとなった。開校翌日の記事には、各界の来賓約400名を招き、職員、業者代表ら約400名が出席して盛大に挙行された様子が記載されている(昭和24年5月22日日刊)。元三菱工場跡には呉羽紡績羊毛工場の建設が本決まりとなったことも報じられた(昭和25年10月21日日刊)。

 元海軍工廠の敷地の転用は、鈴鹿市の大きな課題であった。広大な土地の転用は、当初苦戦していた。元海軍工廠の土地・建物は戦後開放されたにも関わらず、払下げ申請が6会社に留まっていることが報じられている(昭和22年9月22日日刊)。しかし、鈴鹿市の積極的な工場誘致運動によって、海軍工廠跡に旭ダウ化成工場の誘致が本決まりした。約10万坪が使用されることとなり、呉羽紡績工場についで第二の大工場誘致に成功した鈴鹿市は、朗報に沸いたと掲載されている(昭和27年8月16日日刊)。工場前の通りには飲食店なども続々と建築を始めており、畑と田のみだった一帯に繁華街が出現しようとしているとの様子も報じられ(昭和28年2月25日日刊)、工場付近の発展が見受けられる。同時期には大東紡織の誘致も決まるなど、早い段階には繊維工業の誘致が中心であった。また海軍航空隊や海軍工廠の寄宿舎や寮は、引揚者や住宅に困る人へ開放され、戦後の早い時期から活用されていたことも、新聞記事から見ることができる(昭和20年12月17日日刊等)。