戦後の生活

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 戦後の生活において、人々が直面した最も大きな問題は食糧難であった。終戦を迎えたからといって食料不足がすぐに解決するわけもなく、イモや米などの供出は続き、生活物資の配給制度も維持されていた。注目したいのは、食糧難の時期において、鈴鹿郡井田川、加佐登、下之庄方面は「いもどころ(甘藷の産地)」であり、京阪方面からの買出しが非常に多かったことである。昭和22年2月12日(日刊)には、国鉄が1月下旬に三重県内で10日間行った手荷物取締りの結果が報じられたが、ここに鈴鹿地方の特色が表れている。降車時に摘発されたのはわずか19軒であったが、一方で乗車時の車内への持ち込み拒絶件数は4875件に及んでおり、三重県が〝持出される県〟であることを如実に語っている。持ち込み件数の内訳は下之庄が550件と最多で、次に亀山の412件、7番目には関の250件が挙げられており、「いもどころ」鈴鹿地方がずば抜けて多いことがわかる。また、このような買出しは取締りの対象であったため、亀山駅機動検察本部が行なった検挙では、甘藷1405貫、米247キロなどが網にかかり、その人数は800名に及んだが、そのほとんどが甘藷のヤミブローカーであった。1人で少なくとも3,4貫を背負い、貫当たり50円から60円位ほどで買い出し、京阪駅前の闇商人に100円内外で卸していたという(昭和22年8月31日日刊)。食糧難の時期において、鈴鹿地方の農業の位置付けが想像できるだろう。

 食糧確保に大きく貢献した鈴鹿地方の農業であるが、戦後の農地解放を機に、生産体制は大きく変化していた。昭和23年6月16日(日刊)の記事によると、鈴鹿郡では画期的な農地改革によって5反未満の農家戸数が全体の47%から35%に、5反から1町の農家が31%から43%に、また地主階層は1,1%から0,1%となり、中間層の増加が見られるようになった。その後農地解放により、大小農の差が明確になったと報じる記事もあり、その原因は小作田が自作田となり、収穫や供出でも好条件のうちに資本を蓄え、また2町以上と5歩以下の耕作者間に差ができたことを挙げている。

 鈴鹿市の伝統産業である型紙業も、戦争による影響が大きかった。白子町を中心とした型紙業は、伊勢型紙として全国的に知られており、大正末年に最も好況であったが、戦争が始まると型紙の技術者たちも軍需工場に徴用され、業者は激減していった。しかし終戦を迎え、昭和23年10月18日(日刊)では、購買力の減退による着物の「更生染め」が多くなり、それに用いる型紙の需用が高まってきたことを報じている。戦前には型紙彫刻技術者は約700名、年産300万枚を製造しており、戦争で一時的に絶えたが、戦後、原紙製造業者14戸、従業員50名、型紙彫刻技術者100名、販売業者30名が復活し、年産24万枚を製造しているとの記述がある。原料の特殊資材が入手困難で、業者は資材確保に悩んでいるともあり、復活は果したものの着物離れが進み、需要の減少もあって職工数も減少、休業状態が続いたと記されている。鈴鹿市は企業誘致によって工業都市として成長していく一方で、戦前から続く農業や型紙業などの生業については、必ずしも十分な支援は得られず、生産体制に変化を余儀なくされていたことがわかる。