以上、『伊勢新聞』から見ることのできる鈴鹿市の戦中・戦後の様相について述べてきた。総じて、やはり陸海軍の軍事施設が進出したことによる影響が大きかったと言える。「軍事施設の成立」であげたように、鈴鹿海軍航空隊ができたことによって人が移入し、住居・店舗が増築され、鉄道利用者も増加するなど町や村は賑わいをみせた。その一方で多くの市民が出征や軍事施設への徴用、学徒動員を余儀なくされた。海軍航空隊基地が設置された白子町では、県下初の海軍協会分会が結成され、海軍志願者も多く集まった。出征兵士の活躍を伝えた記事については本文中で述べたが、今回検索の対象外とした戦死者名の書上げも途絶えることなく報じられ、少なくとも3日に1回は鈴鹿市から出征した者の名が掲載されていた。聞き取りでも頻繁に語られたことだが、お国の為とはいえ、遺族は身内の戦死が知らされる度に悲しみが込み上げてきたことだろう。郷土に残った人々も戦時中は婦人会を中心として質素倹約を心がけた家庭生活改善の取り組みや耕作地の開墾、米や畜産の増産、個人・団体による寄付、献金などを積極的に行った。学校生活においては軍事教練や必勝祈願の行軍、勤労奉仕などが実施され、軍需目的での兎狩りが行われたことも注目される。
戦後となってもすぐに人々の生活が回復するわけではなく、特に食糧難は深刻であった。だが鈴鹿地方は農業が盛んで、甘藷の産地でもあったため大阪や京都などの都市部から多くの買出し人が来ている。そのため電車内への持ち込み取締り件数も最多であった。こうした農業地帯から産業都市としての鈴鹿市に転換するために、企業誘致が熱心に行われた。ただし、企業誘致は戦後になっての動きだけではなく、戦事中にすでに取り組まれていたことに注目しておきたい。鈴鹿市の企業誘致はわかもと製薬を皮切りに呉羽紡績、旭ダウなど次々と大工場の誘致が決まり、昭和35年には本田技研の誘致に成功する。この企業誘致の取り組みに関しては、市民からの聞き取りからもその事情を知ることが出来る。
この『伊勢新聞』の記事データが鈴鹿市の戦中・戦後を知る上での一助となり、多くの方々に活用されることを願ってやまない。
*執筆担当は以下の通り。
小川真依:「はじめに」、「戦時下の学校」~「戦後の生活」
杉山亜有美:「軍人と出征」~「寄付金、国防献金、功労者表彰」、「むすびにかえて」