伊勢新聞データベース

キーワード:鈴鹿郡井田川村
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No 刊行年月日 西暦 伊勢新聞の【見出し】内容 掲載 地域
1 昭和13年1月7日 1938 【仮令両親の訃にも悲しむ秋でない】出兵中の鈴鹿郡井田川村出身の野間善一上等兵に母の死が告げられた。 夕刊 2面
2 昭和13年3月8日 1938 【陣中から香料】鈴鹿郡井田川村出身の野間善一上等兵が去年12月に急逝したことに対し、隊員から書面とともに金13円の香典が送られた。 夕刊 2面
3 昭和13年10月23日 1938 【嘸父母も帰って喜ぶことでしょう】井田川村出身の故磯部明男氏に論功行賞を与えられ、遺家族は喜んでいる。 日刊 2面
4 昭和13年11月6日 1938 【井田川村自治制記念式典】井田川村では自治制50周年記念式典が開かれ、銃後農村の使命に邁進している者を表彰した。 夕刊 1面
5 昭和14年3月12日 1939 【報労金を恤兵部へ献納】和泉国防婦人会員53名が築堤杭打ち作業に従事し謝礼を陸軍へ献納した。 夕刊 2面
6 昭和14年11月2日 1939 【井田川国婦干し草搬出】井田川村の国防婦人会は干し草の搬出を行い、村長から送られた慰労金を国防献金した。 日刊 3面
7 昭和14年11月11日 1939 【霊の神秘】恒雄さんの妻は、息子が亡くなったことを戦中の夫に告げなかったが、「不思議な霊感を受けた」との便りがあったので事の顛末を話した。 日刊 3面
8 昭和15年1月13日 1940 【村長様の病気回復を雪中氏神様に裸足参り】井田川小学校児童650余名は村長が危篤と聞き、全快を祈るため雪の中氏神へ参拝した。 日刊 3面
9 昭和15年1月31日 1940 【情けの住職】富田福万寺住職の富田さんは同町の日稼ぎ濱田さんと2子に毎朝握り飯を運び、仕事に出るよう濱田さんを説得している。 夕刊 2面
10 昭和15年2月23日 1940 【学童の赤誠】児童の働きにより、富田男子通学園は3円50銭、女子通学園は1円40銭を国防献金した。 日刊 3面
11 昭和15年2月23日 1940 【勤労奉仕で義捐金造成】井田川村の田中君ら8名は勤労時間を延長して得た3円60銭を義捐金として亀山署へ委託した。 日刊 3面
12 昭和15年2月27日 1940 【井田川婦人会活躍続く】井田川婦人会は、春期例会を常会と定める他、各種婦人会での部局的常会を開催することとした。 夕刊 2面
13 昭和15年3月31日 1940 【靖国に香る勲と競ふ】さださんは許嫁の渡辺が戦死した後も渡辺兵の母のもとへ自家から毎日往復し懸命に仕えている。 日刊 3面
14 昭和15年4月22日 1940 【一人息子を戦線に送り】田中林助さん一家は一人息子を戦地に送った後、村内の扶助を固辞して懸命に留守を守っている。 日刊 3面
15 昭和15年5月5日 1940 【モンペ姿で螺拾ひ】井田川村和泉の婦人会員が4月末に螺を拾い売却したところ100円余りを得たので、銃後事業費に充てる。 夕刊 2面
16 昭和15年6月21日 1940 【先づ看護婦産婆常置】農村乳幼児と母性保護・生活刷新のため第1会隣保事業協会結成の会議を開き村内に産婆や看護師の常設・分娩用具の設置などが検討された。 日刊 3面
17 昭和15年6月28日 1940 【芥を焼いて加里肥料】同村小学校は自給肥料獲得のため研究を続け芥を焼くと有料肥料が出来るという新発見をした。 日刊 3面
18 昭和15年6月28日 1940 【全村13寺に託児所】隣保事業指定村である井田川村は農繁期の現在、寺に託児所を開設し良い効果を得ている。 日刊 3面
19 昭和15年6月29日 1940 【これは良い思いつき】同村小学校は古画用紙の活用法を研究し、この度古画用紙で表紙が作成できることを発見した。 日刊 3面
20 昭和15年7月12日 1940 【学童が薬草採り】井田川小学校では児童が薬草採集を行い、売却金を国防献金と国民貯蓄に充てることとした。 日刊 3面
21 昭和15年9月13日 1940 【食料報国】井田川小学校は荒地を農園化しそこに研究所も設置、労働の傍ら研究も進める。 夕刊 2面
22 昭和15年9月13日 1940 【井田川の常会】井田川村はかねてより効果を表していた常会をより一層一般化し非常な好結果を得た。 夕刊 2面
23 昭和15年10月7日 1940 【母校へ拡声器】佐熊氏ら6名は母校へ800数十円をはたき拡声器を寄付しこの度母校の各教室へ取り付けられた。 日刊 2面
24 昭和16年1月15日 1941 【夫人常会の指導実習】女子青年学校教員養成所生は15日より教育実習行事として女青団の指導などを行った。 日刊 3面
25 昭和16年1月17日 1941 【会員が熱誠の寄付金続く】井田川村で組織されている母の会会員の渡辺さんは365銭を同会基金に寄付した。 日刊 3面
26 昭和16年1月26日 1941 【保険組合の設立】井田川村は障保館事業の俯瞰事業として国民健康保険組合を組織し保健衛生・産殖国策に期することとなった。 日刊 3面
27 昭和16年2月2日 1941 【子供は風の子】井田川村小学校では児童の耐寒運動が始まり、校長以下全職員も含め運動に励んでいる。 日刊 3面
28 昭和16年2月18日 1941 【今様山内一豊の妻】井田川村坂ひさのさんは夫の厄年を無事に迎えるため数年来節約して貯蓄をし、厄年の今年、大枚数十円を地元の母の会へ寄付した。 日刊 3面
29 昭和16年2月19日 1941 【遺家族慰安会】井田川村小学校は22日、出征勇士遺家族の慰安会を兼ねた児童学芸会を開催する。 日刊 3面
30 昭和16年4月20日 1941 【児童健康相談所】井田川国民学校で児童健康相談所を開設し、6歳以下の子供の健康相談に応じる。 日刊 3面
31 昭和16年5月24日 1941 【井田川村仏教団勇士の墓所巡拝】仏教団は50円を陸軍へ寄付し村内出征勇士へ慰問袋を発送、戦没勇士の墓所巡拝を行った。 日刊 3面
32 昭和16年7月20日 1941 【児童鍛錬会】井田川国民校は7月20日~8月1日、8月16日~18日に集団行的鍛錬会を開催し心身鍛錬をする。 日刊 3面
33 昭和16年10月30日 1941 【井田川青年団体錬大会挙行】井田川村青年団は28日、体力検定及び新生青年団第1回体錬大会を実施した。 夕刊 2面
34 昭和16年11月2日 1941 【食料増産へ皆働】井田川村国民学校は7反あまりの土地を開墾、作業を続けており31日、第1回収穫2600余貫を村議会を通して売却する。 日刊 2面
35 昭和17年1月22日 1942 【御聖蹟を保存】明治天皇の御野立所、御小憩所などの保存のため、各所在区で協議中である。 夕刊 2面
36 昭和17年2月10日 1942 【ご飯炊きつつ】井田川村では8日から一週間を「焼土励行週間」とし、加里肥料の補給に努める。 日刊 3面
37 昭和17年3月3日 1942 【新築方策へ】昨年設置された健康保険組合では昭和20年までには全国的な発展を遂げるべく、勢力をあげている。 日刊 2面
38 昭和17年3月28日 1942 【有畜農業の開発】農村共同体連盟では自給肥料の増産のため、牧牛を40頭購入し希望農家へ貸し付けることになった。 日刊 2面
39 昭和17年5月26日 1942 【千軍万馬の鎧にも赤襷】井田川村の金属回収運動で、戦国時代の鎧が供出された。これは藤田忠一氏の供出品で20年前に某方面から買い求めたもの。 日刊 3面
40 昭和17年6月6日 1942 【増産目標の必収】井田川村では本年度米穀増産確保を目指して共同苗代経営および共同作業計画に万全を期している。計画としては作業を苗代、採種、麦摺、田植に大別するとともに村内19農家組合を一区域とし、459農家を85班に分けて行われる 日刊 2面
41 昭和17年6月13日 1942 【遺家族へ慰問団扇】日婦井田川支部では村内出征勇士遺家族の慰問に「うちは丸かれ」と団扇数本ずつを贈った。 夕刊 2面
42 昭和17年8月20日 1942 【郷土版】椋川尻は海の無い井田川村の子供たちにとって貴重な鍛錬場であり、また釣場としても有名であったが、増産のため灌漑用河川としても今後重要な役割を持つ。 日刊 3面
43 昭和17年9月1日 1942 【堀田上等兵へ勲章伝達式】31日、鈴鹿地方事務所にて、支那事件の功績による堀田正一上等兵の旭七勲章等の伝達式を行う。 日刊 3面
44 昭和17年9月13日 1942 【児童の松脂積極採取】県下の本年度松脂供出割当は3月の完遂を目標としており、井田川村国民学校高等科児童と青年学校生徒は11、12日に個人所有林で採取を行った。 日刊 2面
45 昭和17年9月20日 1942 【井田川校が松脂採集に努力】井田川村国民学校児童による生松脂採取作業は現在早くも5ガロンの成績を挙げている。 夕刊 2面
46 昭和17年10月17日 1942 【各種団体だより】日婦井田川村支部会員100余名は20日神宮に参拝した後、守札を拝受し皇軍勇士への慰問として発送することになった。 日刊 4面
47 昭和17年10月18日 1942 【郷土版】井田川村では25日国民学校にて村民運動会を開く。 日刊 3面
48 昭和17年10月27日 1942 【産組で牛を購入 無利息で農家へ】鈴鹿郡井田川村では産業組合の斡旋で家畜牛50頭を共同購入し、希望農家に無利息で飼育させ、好成績を挙げている。今後これらの試験を行い飼育優良なものは郡畜産組合で表彰する。 日刊 2面
49 昭和17年11月1日 1942 【農耕用牛の飼養管理審査】井田川村では共同購入した畜牛50頭に関して、10月28日産業組合主催第1回飼養管理審査会を開いた。 日刊 2面
50 昭和17年11月9日 1942 【左腕で再起奉公】匹田猛氏は支那事件当初から大陸へ渡り軍役に就き、昭和12年4月河北での激戦にて右腕を失った。帰国後、左手一本で生活できるまでに訓練し、現在は神戸中勢病院にて勤務する。 日刊 3面
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