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IIIFビューア
ジャンル 地図
資料ID 2017_chi_002
地点番号
地域 台東区
資料名1 東都下谷絵図
資料名1かな とうとしたやえず
資料名2 下谷絵図
資料名2かな したやえず
シリーズ名
英文タイトル
縦・横・厚(cm) 49.6×88.7
判型
時代 江戸
成立年月日 嘉永4年(1851)新鐫、文久2年(1862)改正
成立年月日終
改印(検印)
作者名 戸松昌訓/著
尾張屋清七/編
作者情報
署名等
発行者名 尾張屋清七
版元印
撮影地点・方角
彫師
蔵書印 「醍醐/蔵書(朱文方印)」
「忠順/之印(白文方印)」
「台東図書館/昭和/40.10.21/34686(インク壺形)(裏表紙)」
件名 下谷 伊東玄朴 不忍池 三橋 上野 上野広小路 寛永寺 黒門 下谷広小路 三味線堀 切絵図 三枚橋 種痘所 医学館
スタンプ
画中文字
展示履歴 「蘭学者がつづる江戸 柴田収蔵日記」(2016/06/17~09/14)、「『藤岡屋日記』の世界」(2018/06/22~09/16)、「上野公園~近代の歩み~」(2020/09/18~12/13)、「馬琴日記」(2021/12/17~2022/03/13)、「貴重資料から見る台東区の道」(2023/03/17~06/11)。
室報第14号に図版掲載。
解説 「蘭学者がつづる江戸 柴田収蔵日記」:中央左端の和泉橋から始まる和泉橋通を右に向かい、3区画目の角地が伊東玄朴の塾である。佐渡出身の洋学者・柴田収蔵は、嘉永3年4月からここに住んでいた。また絵図から外れるが、医師修行のため江戸に来た天保14年10月以降は、越後高田藩(榊原家)中屋敷(現在の旧岩崎邸庭園)内の中根半仙の役宅に住んでいた。本絵図は、そのまま柴田収蔵の行動範囲を示すといってよく、彼の買物が池之端仲町の店舗に集中するのは当然であった。
「『藤岡屋日記』の世界」:「安政二己卯十月二日江戸大地震 上巻」に、「御成街道、半潰れ也。西側旅籠町一丁目角、天麩羅茶漬無難ニ而、其隣餅や鶴や・扇や松屋二軒潰れ、其隣本屋由蔵・塩谷弥兵衛無別条」と、安政大地震の際、藤岡屋が無事であったことを伝える。この記事により、神田旅籠町一丁目に住んでいたことがわかり、絵図では、左上方、現在の千代田区外神田三丁目にあたる。
「上野公園」:嘉永4年の現在の上野公園周辺の地図。この地図では鳥羽・伏見の戦いの後、徳川慶喜が謹慎していた寛永寺大慈院や、慶応4年(1868)の上野戦争で戦闘の場所となった黒門口をみることができる。また、西側の不忍池から広小路を横切るように水路(忍川)が東へ流れており、川に架かっていた三つの橋(中央に将軍が寛永寺に参詣する時に使用する大橋、左右に一般用の小橋)、三橋がある。大正5年(1916)に三橋は取り壊され、忍川が暗渠となった。
「馬琴日記」: 馬琴の息子・宗伯は、左上「神田同朋町」、現在の千代田区外神田二丁目にあった自宅から、中央下「松前伊豆守」とある蝦夷松前藩上屋敷に通った。現在の小島二丁目に当たり、約2㎞離れていた。
 右上に位置する不忍池畔の屋代弘賢宅も近く、また版元が集中している日本橋にも近く、馬琴の用を足す上でも最適の場所であった。
「貴重資料から見る台東区の道」:江戸時代に発行された地図(切絵図)のうち、最も多く刷られた尾張屋版。小さく折りたたみ持ち運べるようになっていた。根本中堂下に屏風坂、車坂の、右下の御霊屋と慈眼堂の間にシナノ坂の文字が見える。全て今は無い坂で、屏風坂が国立科学博物館付近、信濃坂が上野郵便局付近、車坂が東京文化会館付近にあたる。
備考 副題は題簽による。縦16.8cm×横9.6cm(折り畳んだ状態)。
書込み
宛名面情報
権利関係 クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
この 作品 はクリエイティブ・コモンズ 表示 4.0 国際 ライセンスの下に提供されています。
詳しくは利用規定をご覧ください。
形態に関する注記 刊写:刊本
形態:舗
色:カラー
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