佐々木道誉の多田院造営

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 さて前述のように佐々木道誉は摂津守護を解任されてのちも、多田院の管理権をもちつづけたが、貞治二年(一三六三)を初見として、大規模な金堂屋根の葺替(ふきかえ)工事をおこなっている。そのこと自体は本市には直接に関係のないことだが、それに関する史料は、西谷地区や米谷・山本荘についてのたいせつな材料を提供してくれる。そこでまず、道誉による多田院の造営と、つづく佐々木(京極)氏と多田院との関係のあらましをながめておこう。
 貞治二年、道誉は多田荘山原村(川西市)の年貢米を、多田院の上葺料として寄進し、造営にのりだすことになった。前章で述べたように、多田院は鎌倉時代後期に忍性の努力によって根本的な修造がおこなわれてから、このときまでにすでに約八〇年を経ている。その間もとより小修理はおこなわれたことであろうが、幕府の実力者でもある道誉によって大規模な修理がおこなわれたものであろう。修理料としては、この山原村のほか、多田荘全荘と、米谷・山本荘など多田荘周辺の諸荘に段銭(たんせん)を課した。また上葺のための材木や人夫役は、先例によって多田全荘にかけられた。したがってこれらの課役は、多田荘の一部である西谷地区にも当然かけられたはずである。
 段銭とは田地一段別に一〇〇文程度課税するもので、このころからさかんになった幕府などの資金調達の方法である。道誉の山原村寄進状には、「天下安全と家門繁栄」のために寄進する、とみえるが、多田全荘や周辺部の段銭賦課は幕府の指示ないし公認のもとにおこなわれたはずで、この修造は室町幕府がおこなった、といってもよいものである。
 

写真41 佐々木道誉の肖像画(滋賀県 勝楽寺所蔵)


 
 それというのも、足利氏は源氏の一族で、尊氏以来源氏の祖先多田満仲の廟所(びょうしょ)である多田院を深く信仰した。源氏正統が三代で絶えた鎌倉幕府よりも、幕府と多田院との関係ははるかに密接であったといってよい。次節であらためて述べるように、財源不足になやむ幕府は摂津はじめ諸国にしばしば段銭や棟別銭を課したが、そのつど多田荘と周辺諸荘の分は、多田院の修理料として寄附されるのが慣例となった。
 道誉による山原村の寄進状や、上葺のため多田荘に材木や人夫をかける道誉の命令は、もと摂津国の守護代でもあった道誉の家臣箕浦定俊によって、多田荘の本田方・新田方両政所に伝達されている。その両政所も、かつて得宗の支配時代がそうであったように、道誉の家臣ではなかったかと推定される。このあたり、じゅうぶんな史料にめぐまれないので断定的なことはいえないが、佐々木氏の支配権は、得宗のそれをひきついだものであるのかもしれない。『太平記』が多田荘を道誉の「旧領」としたのはそのような意味であろう。ただし道誉の多田荘支配が、はたしていつごろからはじまるのか、また『太平記』がいうように幕府政所料所として没収されたことがあるのかどうか、くわしいことはいっさい明らかにすることはできない。なお、佐々木氏は多田の「領主」とよばれることもある。これらのことは、すべて今後の解決が待たれる課題である。
 金堂の上葺工事は応安元年(一三六八)までに完成し、同年四月、完成供養がおこなわれた。多田院御家人たちは、先例のとおりに馬を引進めた。ただし代銭(現物の代わりの銭)で一匹につき銭一貫文を納入した。その名簿には、市域内居住者としてたしかな者は平井小野次郎と山本源太左衛門入道の二人で、鎌倉時代後期の名簿にあった佐曽利氏の名がみえない。なお、応安元年の名簿では、一部を除いて、塩川刑部大夫(ぎょうぶたゆう)入道以下三四名の一般御家人には、すべて何某跡、というように跡の字が加えられている。跡とはふつうは現存しない人間の跡という意味であるが、そのような解釈では、この名簿で一般の多田院御家人が、すべて何某跡と書かれている理由を説明することはできない。
 しかししいて推測すれば、かつて北条泰時が個々の多田院御家人を安堵したようには、御家人たちは足利尊氏や室町幕府によって安堵されなかったのではないか。その結果、個々の多田院御家人は名跡(みょうせき)は伝えても、幕府から個々に安堵された御家人ではなくなったのではないか、と思われるのである。そんな推測のできる材料のひとつに、多田院御家人のうち一三名の者が連名で、建武四年(一三三七)に、多田荘は「御家人中」として勲功の賞に拝領したこと、しかし荘内に散在する寺領には違乱しないこと、という旨を多田院に申しいれている文書がある。連名の一三名は「評定衆(ひょうじょうしゅう)」であるという。
 この文書も他に関連する文書がなく、「御家人中」という組織がはたして長くあったものかどうか、これまたまったく不明であるが、いずれにしても多田院御家人の制度は、室町幕府のもとでは、現存する史料からおしては、はなはだあいまいであるといわなければならない。
 応安六年(一三七三)佐々木道誉が病死したあと、多田荘の支配は子の京極高秀(きょうごくたかひで)にうけつがれた。高秀もひきつづき多田院の修造に努力し、永和元年(一三七五)には法花堂・常行堂・地蔵堂などの修造が完成し、供養がおこなわれた。応安元年と永和元年の両度とも、供養の費用は多田荘はじめ周辺諸荘に棟別銭を課して徴収された。その史料は、当時の村落生活を知るうえでの貴重な手がかりを与えてくれるのである。