応安元年の供養料足は、多田荘の一荘平均の棟別銭、つまり年貢や公事は他の領主に納入する所にもすべて均等に棟別銭を課してまかなわれることとなった。ただし供養の日まで日数がなく急に集めることになったので、三方向にわけ、多田院の奉行と荘園の役人が共同で徴収してまわったという。その結果四、三二八家から、四四貫七〇〇文を徴収した。一家平均約一〇文となる。永和元年には同様にして四、五九九家から、四五貫五二七文を徴収した。この棟別銭を徴収した村や郷や荘の名まえと家数とが、たとえばつぎのように記されている。(上段は応安元年、下段は永和元年)
切畑村 四十六家 切畑 三十一家
波豆村 百四十二家 波豆村 百四十四家
西長谷村 六十四家 西長谷 六十五家
佐曽利郷 二百七家 佐曽利郷 百四十九家
米谷ノ分 百六十六家 米谷荘 二百四十家
両年の史料とも、全体約五〇ヵ所の地名を記載するが、そのうち宝塚市域に関係する部分のみをまとめて表示すると後掲一一二ページの表6のとおりとなる。
この史料から種々の問題を考えることができる。まず多田荘の全体像や、多田院が一定の課役を徴収しえた範囲を具体的に知ることができるのだが、それは次節で段銭の問題とあわせて考えたい。つぎに各村々の家数は、両年でかなり異なっている。全体としては応安元年の方が少なく、それはいそいで徴収したためとも考えられるが、市域内に関しては、永和元年の方が少ない村もある。しかし両年で家数に出入りがあることは、この家数は、現実に棟別銭を負担した家数であり、両年のうち大きい方が、じっさいの家数にかなり近い数である、と推定することができるように思われる。むろん両年とも棟別銭を免除された家や拒否した家があったかもしれず、正確にはつかめないが、およその見当はつけ得るわけである。ただし山本荘・米谷荘は本来の多田荘ではなく、この数字が何を意味するのかは不明というほかない。
こうした問題よりも、ここでもっとも注目したいのは、米谷荘など周辺の諸荘を除いて本来の多田荘は、すべて村または郷を単位に記載されていることである。そのことは、むろん、奥川辺一帯に広大な面積を占めていた多田荘の特殊性に由来する点が大きい。前章でも述べたように、多田荘には、通常の荘園のように一人の下司、一人の地頭といった荘官が配された形跡はなく、当初から村ごとの支配がおこなわれていたふしがあり、村ごとに下司や公文がおかれて、村がひとつの荘園のようになっていたともみられる。だが、一般的にいえば、村は律令制のもとでも荘園制のもとでも、いちども支配や行政の単位とはならなかったものである。その村が、史料のうえに登場してくるのは鎌倉時代後期から南北朝時代のことなのである。多田荘が古くから村を行政の単位としていたとしても、この段階でその内容は大きく変わったはずである。