では、多田荘を構成する村々はどうだったのであろうか。ここでもっとも注目される史料として、応安元年の棟別銭の村別注文にみえる、つぎの一行をあげよう。
此外玉瀬・大原野両村者、百姓等逃散之間 不及于沙汰。
すなわち、玉瀬・大原野の両村は、百姓らが逃散(ちょうさん)していたので、棟別銭を徴収できなかった、というのである。逃散とは、村人たちがこそこそと夜逃げすることではない。要求を掲げ、村人が一致団結して要求貫徹まで一時期どこかに姿をかくす闘争の一形態である。その証拠に永和元年には玉瀬は三一家、大原野村は一三二家が棟別銭負担に応じている。この年までには闘争を収拾して、もとの村落にちゃんとかえっているのである。
玉瀬・大原野の農民たちの闘争目標はなんであったのか、いつごろからはじまり、そしてどのように収拾したのか、いっさいわからない。しかしこのわずか二二字の史料の背後には、このころから高まりはじめた畿内各地の農民闘争と同じ歴史がかくされていると推定してまちがいない。
村人あげて逃散するという手段にまで訴えて貫徹しようとする闘争目標は、通常は、荘園領主のきびしい年貢や公事(くじ)の課徴に反対するか、国人たちのきびしい人夫役の課徴に反対するか、のどちらかである。そして逃散を敢行できるためには、利害をひとしくする農民相互の団結の高まりが、絶対の必要条件となる。荘園領主や守護らに忠実な国人・土豪に農民ひとりひとりがしっかり握られている状況、つまり直接耕作農民が大地主に奴隷的に隷属しているような状況では、逃散はたたかえない。そうではなくて、直接耕作農民が身分的・経済的に成長をかちとり、その農民を封建的に支配しようとする国人を排除して、農民だけ(もっともそのなかには大小の階層はあるにしても)で、生活単位である村ごとの団結を固めたとき、はじめて逃散という闘争手段でたたかうことができる。見方をかえていえば、鎌倉時代後期以来、個々の郷村の地主とのたたかい、小集団での悪党化した国人とのたたかい、あるいは最初は荘官に指導されながらの荘園全体としての荘園領主とのたたかいなど種々の闘争のつみ重ねによって、南北朝時代に畿内先進地帯の農民がたたかうことができた最高の闘争形態が、すなわち逃散なのである。そして逃散をたたかうことで、農民の村ごとの団結はさらに強化され、いっそうはげしいたたかいができるようになってゆく。
玉瀬・大原野村が逃散をおこなっていた、という背景には、このような歴史がかくされているにちがいないのである。とすると、棟別銭の史料にあらわれる村や郷は、たんなる多田荘の構成単位・支配単位なのではなくて、新しい村のはじまりを知らせてくれるものである。その村は、ふつう郷村制といわれる。郷村制こそは、現在の村につづくものである。現在の西谷地区の村の源流が、これらの史料にしめされている、といってよいのである。