こうした郷村の発達は、六〇年間にもおよぶ南北朝動乱という歴史の流れの底流にあるものであり、さらにこれにつづく室町・戦国時代の歴史の流れを規定するものであったといってよい。
南北朝動乱にはもとより種々の階層が参加した。南北両朝に分かれた公家、将軍家や守護らの有力武士、それに仕えて軍忠にはげんだ国人たち、それに動乱のなかで生産と生活を守ろうとした農民である。このうち、悪党の後裔(こうえい)であり、みずからの政治感覚で主君をえらんで軍忠にはげみ恩賞にありつこうとした国人たちの動きが、動乱を複雑混迷に導いた大きな力であったとみてよい。
その国人たち―多田院御家人や伊丹氏など―は、鎌倉時代中期までは村にあって下人や所従を使って農業経営もおこなう者であった。しかし農民の成長によって、国人たちは農業経営から遊離し、村の農民仲間からははずれて、一段階高い立場から農民を支配しようとしはじめる。その過程で、ある者は暴力的に農民と対決しようとし、ある者は荘園領主や守護の権威をたくみに利用しようとする。村から遊離した―農民の立場からいえば排除された―国人たちは、国人相互で連合することも多く、たがいの利害は常に対立するものの、共同してより有力な守護に従ってゆこうとする。そうした国人相互の横の連携を保つことから、実のところ国人ということばは生まれてくるのである。
元弘の変にはじまる動乱は、国人たちに絶好の活躍の場を与えた。軍忠の機会は、同時に恩賞の機会である。恩賞とは、自らの封建領主としての成長を保障してくれるものである。国人らの合戦参加は、常に自らの封建領主としての成長が目標であった。楠木正成の遺子楠木正儀ですらそれは例外ではない。正儀も一時期北朝にねがえり、摂津国住吉郡の守護に任命されたこともある。
こうして動乱は一見限りない混迷をつづけたのだが、動乱の過程を通じて、いちおうの安定が生まれた。守護による国人の支配掌握が前進し、国人たちは不完全な形ではあるがひとまず守護に掌握され、守護権力をバックにして郷村の農民と対決できるようになった。摂津地方にあっては守護細川氏によって、国人の掌握がすすんだ。
このようにして、いわば動乱の成果を吸収した形で、室町幕府による支配がようやく安定するのである。