戦国の主人公

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 山名宗全(やまなそうぜん)・細川勝元(かつもと)の両雄が、奇しくも同じ年文明五年(一四七三)にあい前後して病死してのちも、京都の対陣はつづいたが、文明九年西軍の大内政弘が周防(すおう)国へ帰国し、また畠山義就が河内に下ったことで、さしもの応仁の乱も終わりをつげた。東西両軍のいずれかが勝つということではなかった。守護領国制と幕府政治の矛盾から出発した大乱は、当初こそ参加者にも合戦の意義はあった。しかし一一年も対陣がつづいている間に、守護たちの国元では、下剋上の政治情勢がさらに進み、京都での対陣や合戦は無意味となってしまったのである。
 畠山義就は、宗全・勝元死去の後和平ムードが生まれたなかで主戦論者のひとりであった。だがその義就にも、京都では厭戦(えんせん)ムードが高まるなかで、畠山氏の領国河内を制圧することが家督を奪回する近道である、という展望が生まれたのであろう。義就は畿内の国人たちの間では、「当時名大将」という評判が高く、河内に下ってくると、畠山政長派に属した河内・大和の国人たちは義就の威勢をおそれて没落、つまり行方をくらましてしまい、義就はたちまち河内を制圧した。
 義就の下向を歓迎する者は摂津にもいた。『大乗院寺社雑事記』によれば、「摂州敵対の輩」「摂州緩怠の者ども」が河内に下った義就に同心したといわれる。敵対・緩怠などというのはもとより荘園領主の立場からみた表現で、荘園の侵略押領をもくろむ国人たちが、義就の動きに期待をよせたのである。
 摂津の守護は、細川勝元の死後は政元(まさもと)がつぎ、ひきつづき東軍の中心を占めた。応仁の乱前後、細川氏には家督をめぐる分裂は起こらなかったが、それは表面化しなかっただけのことで、領国内での矛盾が進行していたことはまえにも述べた。畠山義就の河内下向は細川氏の領国である摂津の国人たちにも、大きな影響を与えたのである。
 文明十四年三月、畠山義就と対決する相手であり、依然管領の職にあった畠山政長は、細川政元と連合して、義就追討のため、山崎から茨木・吹田にまで進んだ。するとこんどは摂津の「敵対輩」が、それだけで没落したといわれる。ところが細川陣営では、薬師寺・長塩氏ら摂津守護代が義就追討に反対であったといわれ、政元と義就の講和が成立して政元は京都へひきあげてしまった。
 

表7 畠山氏略系図


 
 義就の河内下向、つづく政長によるその追討が、あたかも畿内戦国争乱開始の合図となった。政長・義就とも国人をたのんで合戦をつづけたが、国人たちはみずからの打算から離合集散をくりかえして勝敗は決せず、政長・義就の死後は、争いは子孫に継承されてゆくことになる。一方、細川氏も政元の晩年にはついに家督をめぐって分裂する。こうして畿内の戦国争乱は、あたかも畠山・細川両守護家の分裂抗争の形をとって展開することとなる。だが守護家の家督争いは、国人たちが互にしのぎをけずって争う旗印であったにすぎない。応仁の乱がすでにそうであったが、さらに力をました守護代や国人たちが、封建領主として一段の飛躍をめざして活発に動きはじめたのである。戦国動乱の主人公は、いうまでもなく守護代やその配下の国人たちであった。
 宝塚の市域周辺では、伊丹・池田・塩川・瓦林氏らの活動が顕著となった。伊丹・池田氏についてはすでにふれてきたように、室町時代初期以来守護細川氏の被官となって着実に勢力を伸ばしてきた。塩川氏は能勢を本拠地とし、鎌倉時代後期にはすでに多田院御家人のなかで頭角をあらわす存在であった。一族も多田院御家人となって多田荘の各地に住み、戦国時代には多田盆地の一庫(ひとくら)に城を築いていた。塩川氏も細川氏の被官となっている。一方武庫川下流域には瓦林氏がおり、鷹尾山・越水城などを拠点とした。
 これらの国人たちは、それぞれ発展しようとすればお互の利害は基本的には一致しない。しかし政治・軍事情勢の展開のなかで、時に連帯し、時に対立しあいながら、戦国動乱は展開する。しかも、これらの国人の参加する戦乱は北摂の局地戦にとどまらなかった。細川氏が幕府の中枢を握る存在であったことから、国人たちは摂津一帯はもとより、河内・和泉・大和・京都などに転戦し、さらに細川氏の領国である丹波にも兵を進めることがあった。
 ところで宝塚市域内にも村を本拠とする国人はいたはずであるが、その活躍の姿は史料や記録のうえにはまったく登場しない。たとえば鎌倉時代に多田院御家人としてあらわれる佐曽利氏は、戦国動乱の間も活躍をしたはずで、次章以下で述べるように戦国時代末期佐曽利氏のなかには中川清秀の手に属し、清秀とともに九州にも下った者もいた。しかし佐曽利氏の戦国動乱の間の活躍はまったく知ることができない。そのことは結局、伊丹・池田氏などに匹敵する国人が市域には存在せず、小国人は大国人の配下に入って活躍したために、その動向がめだたない、ということであろう。
 

写真66『細川両家記』(三好記)巻首と上巻奥書の部分(国立公文書館所蔵)


 
 しかも摂津の争乱が、細川氏の家督争い、ひいて幕府の実権争いの形をとって展開したために、摂津地方の戦国争乱は海岸沿いの地方と西国街道沿い、甲山神呪寺(かんのうじ)―伊丹―池田城を結ぶ線の東側で主として戦われた。したがって宝塚市域内は、武庫川沿いに生瀬口から播磨へ、という軍隊の通路とはなっても、大きな合戦は記録されていない。市域内が兵馬の蹂躙(じゅうりん)にあらされなかったことは幸運であったといってよい。しかし周辺でのうちつづく合戦は、もとより宝塚地方の庶民生活にも甚大な影響を与えたであろう。以下やや視点を広くとりながら、北摂地方の戦国戦記を概観しよう。
 なお戦国争乱の史料は、文書の形で残されているものはきわめて少なく、いわゆる戦記文学によらなければならない。北摂地方の関係する戦国戦記には、『細川両家記』『足利季世記』『瓦林政頼記』などがあるが、史料として比較的信用度が高いのは『細川両家記』である。この本は別名『三好記』ともいわれ、細川氏の領国のひとつ阿波から畿内に進出し、細川氏の実権を握った三好氏を中心に書かれているが、北摂地方の国人たちの活躍にもくわしい。以下の概観も、この本に多くをたよってゆくことになる。
 

表8 細川氏略系図