細川政元の時代

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 さて摂津地方をはじめ畿内の戦国動乱は、畠山政長・義就の争いにつづいて細川政元が両畠山の争いに介入し幕府の実権を握ってゆく過程として展開した。河内を中心とする両畠山の争いは義就の有利のうちに展開し、文明十七年(一四八五)暮、両派は南山城で対陣した。ところが農民の反対運動を基礎に、南山城地方の国人たちが両派の撤退をもとめ、同時に国人による自治をめざして有名な山城国一揆が起こった。土一揆の最後の花でもあった。国一揆の成立によって管領畠山政長は面目を失い、やがて管領の地位を失った。
 長享元年(一四八七)、将軍義尚は近江守護六角高頼(ろっかくたかより)追討のため近江に出陣した。応仁の乱によって急激に低下した幕府の権威の回復をめざしたものであったが、将軍の命に応じた守護は少なかった。その状況のなかで、政元は数千の兵を率いて参加した。しかし義尚は延徳元年(一四八九)近江在陣中に病没してしまった。義尚のあとは、足利義視の子義材(よしき)と義政の弟で関東堀越公方政知(まさとも)の子義澄とが争い、政元は義澄を支持した。しかし義材が将軍職をついで近江を再征し、明応二年(一四九三)畠山政長とともに畠山義就の子基家(義豊、義就は延徳二年病死)を河内に攻めた。その間京都にいた政元は、将軍義材を廃して義澄をたて、さらに家臣を派遣して河内に義材と政長を攻めた。政長は正覚寺の陣で自刃し、義材は降伏した。義材は捕えられてのち脱走して越中(えっちゅう)にはしり、ついで京都回復をめざしてふたたび敗れ大内氏をたよるなど、「流浪の将軍」とよばれる運命をたどることとなる。
 将軍も、いまやこうして畿内戦局の実力者細川氏によって廃立される存在となり下った。明応三年義澄は正式に征夷大将軍となり、同時に政元も管領となった。
 畠山氏では、正覚寺の陣から政長の子尚順が脱出して紀州に逃れていたが、ふたたび河内に進出して義豊、その子義英らと合戦をくりひろげた。政元は一貫して義豊・義英を援助したがやがて混迷に乗じて河内を勢力下におこうとした。その危険を感じた尚順と義英は、尚順は高屋(たかや)城(羽曳野市)、義英は誉田(こんだ)城(羽曳野市)を保つことで講和し、ともに政元にあたろうとした。しかしときすでにおそく、永正三年(一五〇六)政元の家臣赤沢宗益が両城を攻略し、河内も政元の勢力下に入ってしまった。このとき塩川太郎左衛門尉は、誉田城の城詰(しろづめ)に出かけている。こうした政元派の合戦に、摂津の国人衆も動員されたことはいうまでもない。
 こうして細川氏は順風満帆の発展をするかにみえたが、細川氏にも分裂の時代がきた。これよりさき永正元年九月、摂津守護代の薬師寺元一(もといち)が、赤沢宗益らと語らって、政元に代わって阿波の細川澄元をたてることを名目に山城の淀城(京都市)で挙兵した。『細川両家記』などの伝えによれば、政元は山伏の魔法にこった変人で、妻ももたず子もなかったといわれる。そこで政元は関白九条政基(まさもと)の子を養子として九郎澄之(すみゆき)と名のらせた。ところがさらに一門で阿波国守護細川義春の子澄元を養子にしようとして、薬師寺元一に交渉させた。元一はこの澄元をたてることを名目に挙兵したのである。もとより、政元に子がなかったことが直接の原因であったにしても、それは分裂のきっかけであったにすぎない。政元が将軍を廃立したと同じように、摂津守護代や国人衆が、守護家の家督を廃立しようとするのである。
 挙兵した元一は、弟の長忠(与次)によって攻められ、元一は切腹した。そして兄に代わって摂津守護代となった長忠は、兄と同様阿波に下って澄元の上洛を交渉した。永正三年四月、澄元は三好之長(ゆきなが)らを伴って上洛し、政元は澄之を丹波守護にして下らせた。ところが長忠はこんどは一転して澄之を支持して政元に造反し、永正四年六月政元を暗殺してしまった。ときに政元は月待の行水(ぎょうずい)中であったといわれる。応仁の乱後の幕府と畿内戦局の実力者も、いとも簡単に下剋上によって殺されてしまったのである。
 

写真68 高趾城跡
安閑天皇陵が、畠山氏の高屋城とされていた(大阪府羽曳野市)


 
 長忠らはさらに澄元を攻めて近江にはしらせ、長忠・澄之で細川氏の実権を握った。しかし同年八月、政元のいまひとりの養子高国が澄之を攻め、澄之・長忠らは戦死し、澄元は家督にかえりざいた。ところが摂津国人らは阿波出身の澄元の家督に反対した。そこで高国は永正五年四月伊丹兵庫助元扶(もとすけ)、丹波の内藤貞正らの援助を受けて澄元を攻めたので、澄元はふたたび近江へはしった。こうした争乱のつづくなかで、前将軍義材(このころ義稙(よしたね)と改名)は大内義興の助勢を受けて京都にせまり、将軍義澄もまた近江にはしった。その結果高国は細川家の家督におさまった。義稙は将軍に復して、高国は管領となった。
 高国の家督には、伊丹氏はじめ摂津国人があげて支持したが、ただひとり池田筑後守貞正は反対した。「平素澄元と無二の衆であったからだ」といわれるが、池田氏は摂津国人衆のなかにあって独自の途をとろうとしたのであろう。永正五年四月、高国は細川尹賢(これかた)以下猛勢をさしむけて池田城を囲ませた。籠城した池田氏では、一族遠江守が高国方に寝返るなど脱落者が出て、五月十日貞正は二十余名とともに切腹し、池田城は落城した。
 細川氏の家督の争いには、摂津の国人衆が深く関与し、その結果摂津地方もこうして戦国争乱の渦にいやおうなくまきこまれてゆくこととなった。また河内の両畠山氏では、細川氏の争いとともに和議は破れ、尚順・義英両派の争いは再開し、その情勢も微妙に摂津に影響した。