永正八年、その後阿波にあって兵をととのえていた澄元は反撃にでた。一族の細川政賢や和泉守護細川元常、畠山義英方遊佐(ゆさ)河内守らと連携して和泉から堺を攻め、摂津国人も防戦に出陣したが、澄元方が優勢となった。一方澄元は播磨赤松義村とも連携をとり、赤松勢は高国方瓦林政頼を鷹尾城(芦屋市)に攻めて八月十日攻略し、ついで伊丹城を囲んだ。細川政賢は堺をぬくと京都へ進み、高国と将軍義稙、それにこのころ在京して義稙をたすけていた大内義興らは、八月十六日丹波へ脱出した。しかしたちまち反撃に転じ、同二十四日京都舟岡山の合戦で細川政賢を敗死させ、京都を奪回した。赤松勢はこの時まで伊丹城を囲んでいたが、澄元方の京都での敗戦を聞き、生瀬口から帰国した。生瀬口から播磨への道は、当時の裏街道として兵の撤収に好適だったのであろう。
この勝利によって、高国の政権はしばらく安定期をむかえた。永正十一年(一五一四)、高国は将軍義稙のため京都三条高倉に新第を造営することになり、高国はその段銭を多田荘に課し、京済、すなわち段銭を京都に納付することを命じた。その文書が多田神社に蔵されている。多田荘の段銭や棟別銭は、一国平均賦課の時も造営料として多田院に寄附されるのが先例であった。高国はこの先例を破り、段銭の国元での催促を禁じ京都へ納付することを命じたのだが、以後多田荘の段銭が多田院に寄進されることはなくなった。その結果多田荘の特権が失われ、多田荘は守護勢力のきびしい段銭催促にさらされることとなったのではなかろうか。多田荘はじめ米谷・山本荘にとって、これは大きな変化であった。
なお澄元方の部将河島兵庫助は縁を求めて瓦林政頼に降伏し、とりたてられたが、澄元方への内通を疑われて斬られ、文武の才に長じた器量者であった子の松若もまた斬られた。この松若の悲話が、『瓦林政頼記』後半の主題となっている。
永正十六年秋、澄元方はふたたび反撃に転じた。十月、さきに澄元方として孤軍奮闘した池田筑後守貞正の子三郎五郎が、有馬郡田中城(三田市)で反高国の兵を挙げた。高国方瓦林政頼・池田民部丞・塩川孫太郎らが田中城を攻めたが、土地不案内のためもあって首三十ばかりとられて敗れた。この合戦では、市域内を兵馬はあわただしく往還したことであろう。勝報が阿波に達すると澄元は喜んで豊島郡を池田三郎五郎に与え、弾正忠に任じたという。そして十一月、澄元は三好之長らをつれ兵庫に上陸して神呪寺に入り、之長は瓦林氏のこもる越水城(西宮市)を攻めた。高国は丹波・山城・摂津の国人を率いてみずから池田城に入って本営とし、昆陽野から武庫川下流まで布陣して越水城を援助した。
翌永正十七年正月、高国方は総攻撃にで、伊丹国扶らが大いに奮戦した。しかし二月三日越水城は落城、三好之長は攻撃にでて十七日池田城・伊丹城がともに落城した。高国は敗走し、将軍義稙とともに近江に逃れた。伊丹城には伊丹但馬守・野間豊前守のふたりがいたが、「当城此数十年の間、諸侍土民以下煩(わずらい)としてこしらえたるそのしるしなく、のがれける事口おしさよ、我等二人は此城の中にて腹切らん」と「天守にて腹切ぬ」という。『細川両家記』のこの記事が、城の「天守」の初見史料である。
三好之長は京都に入り、澄元は伊丹城に移った。ところが同年五月、高国は近江の佐々木・六角氏の力をかりて反撃にでて京都で之長を破り、之長はのち自刃してしまった。京都の敗戦を聞いた澄元は伊丹から生瀬口・播磨を通って阿波に逃れた。そして六月澄元は阿波で病死した。
こうして、摂津を舞台に激しく戦った高国の当面の敵澄元と三好之長は滅んだが、新しい家督紛争の火種は高国みずからが起こした。大永五年(一五二五)四月、高国は出家して道永(どうえい)(のち常桓(じょうかん))と名のり、家督を子の稙国(たねくに)に譲った。ところが稙国はその十月病死し跡取りがなくなった。翌大永六年七月、高国は武将香西元盛(こうさいもともり)を自殺させたが、一族細川尹賢(これかた)の讒言(ざんげん)によるといわれる。これをうらんだ香西の兄波多野稙通(はたのたねみち)・弟の柳本賢治(やなぎもとけんじ)が同年十月丹波で挙兵した。これをはるかに支援したのが澄元の子晴元で、晴元を旗頭として反高国勢の活動がふたたびさかんとなった。十一月、高国は尹賢や瓦林政頼・塩川孫太郎・池田弾正ら摂津衆に丹波を攻めさせた。ところが丹波守護代は尹賢に反対し、池田弾正また途中で寝がえった。池田は波多野の甥(おい)であったとされている。尹賢以下摂津勢は敗戦し、池田は自城にたてこもった。年末から翌大永七年初頭にかけて摂津地方でも反高国の勢力がしだいに強力となり、伊丹国扶の伊丹城だけが高国方で、他はすべて晴元方、という状勢となった。大永七年二月、高国は将軍義晴とともに近江へ逃れた。
大永七年三月、三好之長の孫元長(もとなが)が、晴元および前将軍義澄の子義維(よしつな)(義晴の弟)をつれて堺に上陸し、九月、元長は諸勢をひきつれて高国方の伊丹城を囲んだ。伊丹城は堅く守って落ちなかった。十月、高国と将軍義晴は京都に放め入ったので元長は伊丹城をそのままにして京都を攻めた。しかし結局伊丹氏も晴元方にっき、摂津国人衆はすべて高国を見限ってしまった。翌享禄元年(一五二八)五月、高国・義晴はまたまた近江へ逃れ、高国はこのあと京都を回復することはなかった。
晴元は、しかし高国逃亡後の京都にはすぐには入れなかった。晴元はそのまま堺にとどまって「堺屋形(さかいやかた)」と称され、「堺公方」義維を奉じた「堺幕府」の形で数年間を過すことになる。それというのも晴元陣営内部の対立が深刻であったからである。とくに三好元長と柳本賢治の対立が深刻で、摂津国人も両派に分かれた。享禄二年八月、柳本は伊丹城を囲み、十一月伊丹元扶ら三〇余人が討死して伊丹城は陥落した。
その間に高国は反撃の機会をつかんだ。高国は播磨の浦上村宗(むらむね)をたのみ、享禄三年六月柳本賢治を暗殺すると、八月播磨から摂津に進出し、神呪寺に陣した。晴元方は高畠甚九郎が伊丹城に池田筑後守久宗(ひさむね)が自城池田城に、薬師寺国盛が富松(とまつ)城に入った。ところが薬師寺が高国方に寝返って富松城は落城し、翌享禄四年二月伊丹城が落城し、ついで高畠甚九郎が逃げこんだ池田城も三月には落城し、摂津下郡で高国方が優勢となって戦線は天王寺・中ノ島あたりへ移った。薬師寺は堺の晴元のもとへ七歳のわが子を人質にだしていたが、これを見捨てたため、「みな人あさましがりけるなり」という。
晴元方には阿波から援軍が到着し、畠山義宣(よしのぶ)の武将木沢長政も晴元方についた。さらに播磨浦上氏は、主の赤松氏を倒していたが、赤松氏の一族がいい機会とばかりに神呪寺辺まで進出してきたので、高国方浦上勢のなかには赤松勢に通じる者が続出したという。六月四日、天王寺・木津・今宮辺で大会戦がおこなわれた。高国方は伊丹国扶ら摂津衆や薬師寺国盛はじめ数千人が討死したといわれ、戦国動乱では珍しい激戦となって高国は大敗した。高国は尼崎に逃れたが、最後は単身町屋(異説もある)にかくれているところをみつけだされて自害した。