細川晴元の時代

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 高国の自害ののち、こんどは晴元と三好元長が対立し、睛元を助けた木沢長政も畠山義宣から攻撃をうけ、畿内戦国の動乱はさらに混迷した。これにいっそう輪をかけたのが一向一揆・法華一揆の登場である。戦争形態にも城の攻防のほか、一般民屋の焼払いもしばしば用いられるようになり、戦禍は摂津一帯の庶民生活にも大きな被害を及ぼしてゆくようになる。
 天文元年(一五三二)五月、畠山義宣・三好元長らは河内飯盛城に木沢長政を攻め、長政は晴元に援を求めたので、晴元は本願寺証如(しょうにょ)に助力を求めた。証如は、みずから一〇万とも二一万ともいわれる一揆軍を率いて出陣して畠山義宣を破り、ついで長政・一揆の連合軍は三好元長を堺に攻め、元長を自殺させた。
 ところが一揆と晴元はたちまち対立した。八月四日、堺付近で一揆は晴元・長政を攻め、五日には摂津にも一揆が起こって池田城を攻めた。これに対して晴元側は、八月二十四日、近江の六角定頼および京都市中の法華(日蓮宗)門徒と協力して、一向一揆の本拠山科(やましな)本願寺を焼討ちした。年末には摂津上郡の国人衆が富田の道場(信者の集会所)を焼き払い、伊丹・池田氏が協同して下郡の道場を焼き払った。翌天文二年二月、一揆は晴元を堺に攻めて淡路に逃亡させ、三月には伊丹城を囲んだ。この包囲軍を背後から攻めるため、京都から法華一揆が木沢長政に率いられてはるばる摂津に出撃し、周辺の村々に放火した。四月、晴元は淡路から池田城に入って態勢をたてなおすと、堺や大阪石山本願寺を攻めた。
 こうして天文元年から二年、晴元と一向一揆の対立に京都の法華一揆もからみあって、摂津下郡一帯で激しい合戦をくりひろげた。
 一向一揆とは、浄土真宗本願寺の信者が、寺や道場を中心に団結し、荘園領主や戦国武将の支配に対抗してたちあがった闘争をいう。応仁の乱の前後、本願寺の勢力は蓮如(れんにょ)の活躍によって急速に拡大し、北陸でまず一揆が起こった。蓮如はついで山科本願寺や石山道場をたてて、畿内で布教をはじめ、各地に道場や寺院ができ、寺院を中心に寺内町もつくられた。その信者となったのは、小土豪や農民あるいは商工業者らである。かれらは道場や寺を中心に新しい団結をもち、闘争にたちあがったのである。惣を中心とした土一揆の勢力は、山城国一揆を最後にすっかり衰えた。代わって一向一揆がその闘争を受けついだといってよい。もっとも蓮如やつぎの実如の時代には、信徒が武装して権力と対抗することを禁じていた。それでも一向一揆は起こったが、証如の時代に入って、大永五年(一五二五)ごろから、教団の防衛のために積極的に戦国武将の争いに介入してゆく方針に転換した。寺院や寺内町を土塁で囲んで防備し、あたかも城郭のようにした。石山本願寺はなかでももっとも堅固に構築された。
 宝塚地方には、真宗がどの程度普及したのか、史料のうえではじゅうぶんわからない。次章で述べるように、小浜の毫摂寺が、戦国時代末期にはたしかに存在したことが判明するていどである。しかしこの他にも道場があったはずで、一揆して国人と対抗したことは、以上の経過でも明らかである。戦国動乱の主人公である国人たちに敢然対抗する勢力として一向一揆があらわれたことは、大きな意味をもっている。のちにあらためて述べるように、国人たちは戦国動乱を戦いながら、一揆に結集する農民や小土豪をじゅうぶん支配できなかった。一揆は、幕府や荘園領主という古い権力ばかりでなく、新しい封建支配をめざす権力にも対決する勢力として登場したのである。
 だが一向一揆のじっさいの行動は、守護や国人の対立抗争にまきこまれてしまい、目ざす権力との対決にはなんらの展望も見出せなかったといわなくてはならない。晴元がいちどは一揆を利用したもののまもなく一揆と対立したのは、一揆の本質ゆえであったが、天文二年六月末、本願寺と晴元との間にいったん講和ができはしたが小ぜりあいはその後もつづいた。同年九月には瓦林某が一揆に味方して越水城を奪取し、天文三年八月には三好利長(としなが)(のちの長慶(ちょうけい))が一揆とむすんで椋橋(くらはし)城(豊中市)にたてこもり、晴元は伊丹衆・池田衆らに椋橋城を攻めさせた。同年十月には、三好政長・伊丹衆・池田衆らが利長と一揆勢を潮江西田中(尼崎市)に攻めた。このような攻防戦を通じて、一揆側・国人衆ともに激しく消耗し、戦場となった摂津下郡の庶民生活にも、きびしい戦禍をしいた。
 天文四年十二月、本願寺と晴元の講和はととのい、天文五年九月に、晴元はようやく京都に入ることができた。将軍義晴も近江から帰国し、晴元は高国を滅してからあしかけ五年にして、名実ともに幕府の実権を手中にした。晴元は茨木長隆を筆頭に、飯尾元運・飯尾為清の管領代を指揮し、伊丹・池田氏ら摂津の国人衆と三好政長らの武力を握って、幕府体制と混乱した秩序を回復しようとした。晴元は国人衆や荘園領主の所領安堵をさかんにおこなっている。多田神社文書にも、茨木長隆や飯尾為清の奉書が蔵されている。晴元は、幕府体制を維持する最後の努力をおこなったといってよい。
 なお茨木長隆は摂津上郡の、現茨木市を本拠とする国人であったと思われ、晴元が堺屋形として摂津下郡の国人衆を組織できたのも、長隆の動きが大きかったと思われる。