晴元政権の成立によって摂津地方は久しぶりに安定期を迎えたが、それもかたときのことであった。摂津国人衆の相互の利害は、晴元政権のもとで長く一致することはしょせん無理でやがて対立が表面化し、またさきに晴元に滅ぼされた三好元長の子範長(利長、のちの長慶)が、天文八年に反乱を起こしたあと、越水城に在城して不気味な存在となった。
天文十年(一五四一)九月、塩川伯耆守政年が、多田荘一蔵(ひとくら)城(川西市)にたてこもった。政年は高国の妹婿(いもうとむこ)で、三好範長の攻撃をおそれたといわれる。範長・三好政長らは一蔵城を囲み、塩川氏は伊丹親興・三宅国村らに助勢をたのんだ。伊丹・三宅氏とも塩川氏と縁つづきであったという。伊丹・三宅氏はさらに河内の木沢長政に助勢をたのみ、長政の弟左馬助か伊丹城に救援した。その左馬助も伊丹氏の婿であったという。摂津・河内の国人層相互で婚姻関係を結び、さらに守護代クラスとも婚姻を通じていた。それはいわゆる政略結婚であろうが、動乱を生きぬく国人層の知恵でもあった。なおこの塩川氏の挙兵が、戦国動乱が池田―伊丹の線から奥川辺に及んだ最初である。
塩川救援軍の到着によって三好範長は一蔵城の包囲をとき、伊丹衆はすすんで越水城におしよせて西宮一帯を放火した。この間池田氏は自城にこもって動かず、結果的に晴元・三好側をたすけた。天文八年には、池田久宗は毛氈(もうせん)の鞍覆(くらおおい)の使用を幕府から許されている。国人相互の激しい主導権争いのなかで、このような身分の誇示も必要だったのであろう。塩川救援に同意して反晴元の立場をはっきりさせた木沢長政は、河内・大和をあらし回り、これに対抗した遊佐長教は塩川氏にも援を求めた。このころになると、大和・河内・山城の国人衆の動きが、摂津の国人衆ともぴったり連動するようになる。
天文十一年三月、反晴元の立場をとって積極的に動いた木沢長政が河内太平寺(柏原市)の一戦で敗死したあと、天文十二年にはもと細川高国の被官人らが細川尹賢の子氏綱をたてて高国の家督相続を主張した。この騒動はすぐに鎮圧されたが、氏綱は反晴元・反三好政長の旗印として利用されることになった。
天文十五年に入って、河内の遊佐長教が、氏綱をたてて反晴元陣営を組織しはじめた。池田久宗ら晴元の有力被官人も氏綱方に寝がえりはじめた。ただ伊丹親興だけは晴元・三好方にとどまり、池田城を攻撃している。氏綱方の兵は京都にせまり、晴元は丹波から播磨へ逃れた。晴元方では三好範長・政長が四国勢の救援を求めた。同年冬、三好之康(ゆきやす)ら四国勢が堺に到着し、天文十六年二月、晴元方は攻勢にでて摂津の原田城(豊中市)ついで三宅城(茨木市)などを攻略し、六月芥川城を回復、七月には晴元も帰洛した。芥川城には池田久宗もこもっていたが、三好政長をたよって晴元に帰参した。政長と久宗とは縁戚であった。しかし池田久宗は天文十七年五月に京都で自害させられている。いったん裏切りながら帰参した久宗の態度が、結局晴元から許されなかったものであろう。なお塩川政年・伊丹親興らもさきに反三好範長を鮮明にし、範長が晴元・政長と結んだことで晴元との立場が微妙になった。しかし伊丹氏は正式に晴元に帰参を許されている。塩川氏もそうであろう。
こうして氏綱擁立(ようりつ)の危機も三好政長・範長の活躍で回避されたかにみえたが、こんどは政長と範長(このころ長慶と改める)が対立し、政長をかばう晴元と長慶は袂(たもと)を分かった。遊佐長教は長慶方につき、摂津・丹波・山城の国人も長慶につきはじめた。摂津下郡では池田・瓦林・有馬・原田の諸氏が、越水城に拠る長慶に味方した。これに対し塩川・多田衆と伊丹氏は晴元側にとどまり、摂津下郡の国人はまっ二つに割れた。
天文十八年正月、三好政長は多田荘に入り、多田衆を率いて池田市場を放火するなど反撃にでた。四月には晴元も塩川城に入った。塩川城とは、たぶん一蔵城であろう。長慶の陣営がしだいに強化されてゆくなかで、今や多田荘が唯一の安全な場所となったものであろうか。政長は多田荘から武庫郡・川辺郡に出撃し、村々を放火してまわった。村々の神社・仏閣までも焼きすてたという。
五月、政長・晴元は多田をでて三宅城に入り、六月、政長は江口付近に布陣して長慶と決戦を交えようとした。晴元の舅六角定頼も助勢する手はずであった。だが六月二十四日長慶方十河一存(そごうかずまさ)らが近江勢の到着前に戦を決しようと攻勢にでた。三好政長・高畠甚九郎ら八〇〇余人が討死して、戦いは決した。晴元は京都に走り、天文十六年に晴元が新将軍に樹立した義輝(当時の名は義藤(よしふじ))と前将軍義晴を奉じて近江に逃れた。
しかしこれ以後、晴元は京都の実権を回復することはできなかった。この江口の合戦によって、幕府の管領家であり室町時代を通じて摂津守護であった細川氏の実権が喪失し、事実上滅亡したといってよい。同時に、守護細川氏の家督争いを軸として展開してきた摂津の戦国争乱の、大きな画期でもあった。