以上が、摂津下郡、川辺・武庫郡を中心とした戦国戦記のごくおおまかなあらましである。直接市域内に関係するところは少なかったが、市域内にもいたはずの小国人たちは、こうしてめまぐるしく移りかわった情勢にふりまわされていったことであろう。そして庶民の生活も、直接・間接に甚大な影響をうけたはずである。
ところでこの争乱の主人公は国人たちであることはこの項のはじめで述べたが、この争乱を通じて彼らの得たものはなんであったろうか。
結論からさきにいえば、池田氏・伊丹氏などの有力国人たちが主体的な判断のもとに争乱を戦いながら、結局自城も維持できず、没落することがたびたびであり、それぞれの国人たちが、ともに傷つき、ともに疲れる結果を得たにすぎない。彼ら国人たちは、居城をしっかと維持し、近隣の国人を打倒して勢力をひろげ、支配地域の農民を封建的に支配することに、争乱を戦う意味があった。塩川・池田・伊丹氏らがなかなか一致して行動せず、いわゆる合従連衡(がっしょうれんこう)をくりかえしたのもそのせいである。だが落城はしても決定的没落はまぬがれたかわりに、摂津の国人を統率する強力な新興勢力も、摂津国人のなかから生まれることはなかった。
支配地域の農民支配も、守護領国制下の状況以上になにほどの進展もみせなかった。具体的には、じゅうぶん明らかにすることはできないが、摂津下郡でも一向一揆が闘われたことが、そのことを証明している。
国人たちが旗印とした細川氏は、衰えたとはいえ幕府権力の中枢を握る大物であり、争乱は畿内中心部全域にわたって展開したこと、摂津国人のほか、阿波三好氏など国外の勢力も進出したという摂津の地理的特性、多数の国人が成長した反面、農民の闘争も強力であったこと、などが、そのような争乱の結果を導いた原因と考えられる。それは、河内・和泉・大和・山城など畿内に共通する事情でもあった。
室町時代後期に池田氏は富強をほこっていたことはまえにも述べてきたが、呉庭荘の池田館には、幾棟もの倉が並んでいた。文明十九年(一四八七)二月、奈良興福寺大乗院の尋尊と政覚は有馬に遊び、帰路池田館に立寄っている。尋尊の一行は二月十八日に奈良を出発し、木津から船で山崎にで、淀川を下って十九日尼崎大持(物)の浦に宿泊し、二十一日和田岬・明石をまわって二十二日有馬湯山に入った。湯山には伊勢国司北畠氏も同宿していた。そして三月十四日箕面寺(滝安寺)参詣のため湯山を出発し、途中池田館をみたのである。行きは西まわりであったが、湯山から池田を経て箕面への帰途は当然宝塚市域を通ったはずであるが、市域の風景については何らの記述も残されていない。同道した政覚は、その日記に「池田庭倉以下これを拝見す。目を驚かすものなり」と書いている。
池田氏の富裕な財産は、足軽の傭兵費にも使われたであろう。だが戦国動乱の間に、その戦績から何らの成果も生むことなく、富裕をほこった財産も空しくなったのではなかろうか。
では戦国争乱は、国人や庶民の限りない消耗と、田畑家屋への戦禍の爪跡だけを残しただけで、何らの成果もなかったのであろうか。そんなことはない。その戦禍の深さに、第一の意味があった。一〇世紀にはじまる荘園制の社会関係は、戦乱によって最後のとどめをさされた。享禄三年(一五三〇)細川高国が敗死したことを聞いた『二水記』の筆者は、「高国の反撃は、寺社本所領の復興を大願としていたということである。末世の武士にこの心がけがあるとはありがたいことだ。しかし高国は神明仏陀の援助が得られなかった。公家門跡も断絶する基となろう。歎くべし、悲しむべし」と書いている。荘園支配は戦乱の間に有名無実となってしまった。第二には、細川氏が事実上滅亡したことで、室町幕府の権力と、幕府に支えられてかろうじて存続していた公家権力も完全に解体してしまったことである。
戦国争乱の一世紀は、こうして中世の政治と社会のあり方を最後的に清算するものであった。あとは新しい権力と秩序の誕生を待つのみである。