七つの壺の発見

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 昭和四十六年秋、市立西谷中学校の運動場拡張工事が自衛隊の手で施行されていた。十一月十三日運動場北側の田を道路敷になるようブルドーザーでけずっていた自衛隊員は古銭を二、三枚ひろった。その翌日、近所の小学校四年生住家幸枝が、けずられた土手付近をすべって遊んでいるうち、古銭をみつけ、祖母住家しづにみせた。しづは「六道銭にいるから」ということで、孫といっしょにあたりをさがすうち、土のくずれたかげ(小池良男所有地)に壺らしいものを発見した。手であたりを掘って壺を確認し、しづの夫が鍬で突いたところ、壺が割れて水がもれ、古銭も流れでた。しづの息子が掘りだそうとするのを、しづは「小学校の子どもにみせてやりたい」と考えて制止した。そして以上のことを十四日中学校の文化祭で大声で皆に話した。
 これが西谷地区堂坂(どうざか)に埋められていた古銭発見のいきさつである。さっそく中学校職員より市の教育委員会に報告され、その指示のもと、警官立会い、中学校職員と近所の人々、それに中学校生徒らも手伝って、その日発掘がおこなわれ、四個を掘りだして中学校に保管した。さらに一個の存在を確認し、あとは教育委員会「堂坂遺跡緊急発掘調査」にうけつがれた。
 古銭のつまった壺が、まったく予期しない場所からの偶然の発見でありながら、さいわい心ないいたずらにさらされることもなく、関係方面に通知連絡され、周到な留意のもとに掘りだされ、観察記録も残された。第一発見者住家しづはじめ、当初関係した人々の良識を高く評価しなければならない。
 市の教育委員会による緊急調査は、昭和四十七年一月二十二日から二十五日まで、高井悌三郎(ていざぶろう)を担当者としておこなわれた。その結果、あらたに壺二個、計七個が発掘され、全国でも有数の古銭が掘りだされた。その発掘調査報告書はすでに≪宝塚市文化財調査報告書第3集≫として発表されている。以下この報告書によって壺や古銭の状況を紹介し、以上の歴史の流れにそって若干の考察を加えることにしよう。なおくわしい報告は本市史別編にゆずる。