以上が七つの壺となかにつまった貨銭のあらましだが、ではこの七個の壺は、いつ、だれが、いったいなんのために埋めたのであろうか。この問題については他にまったく関係史料かなく、遺物と出土状況や、一般的な情勢から推測する以外に解明の方法はなさそうである。
まずいつ埋められたかについては、比較的簡単に推測することができる。銭貨のもっとも新しいものが永楽通宝であり、しかも寛永通宝を含まないことから、室町時代の中後期から戦国時代が、これらの銭貨の集積された下限の時期と推定できる。一方容器の壺は、古丹波でこれまた室町時代中後期と鑑定されているので、銭貨からみた集積時期と一致する。つまり室町時代中後期から戦国時代に、七つの壺いっぱいの銭貨が集積されていたことはまちがいないところである。
もっともこのおおよその時代は、埋められた時期の上限であって、下限のきめてはない。つまりこの時代よりものちなら、いつでも埋められ得たのである。だが、七つの壺は埋められたものであることはまぎれもない。それは隠匿(いんとく)するためであったはずである。寛永通宝の鋳造以後、これらの銭貨は通貨としての意味を失い、極端にいえば銅塊にすぎなくなった。その時代なら、わざわざ埋めることはあるまい。とすると埋められたのは、これらの銭貨が通貨として通用していた時期、つまり室町時代から戦国時代と推定できるのである。
つぎに、これら銭貨の持主はだれだったのであろうか。埋められていた場所の地名は堂坂といわれ、付近一帯が古く宝山(ほうざん)寺の境内であったと伝えられていることが、ひとつの手がかりとなる。現在も出土地点の南西四〇〇メートルに宝山寺があり、また北東一〇〇メートルに大日堂がある。大日堂には、様式上室町時代前期と推定される宝篋印塔三基がある。宝山寺に関しては中世の史料はまったく伝わらないが、この石塔によって、室町時代には付近一帯が寺の境内であったであろうことは推測してよいようである。
もとよりこのことから、銭貨が宝山寺の所有物であったと速断するわけにはゆかない。だがかりにそのような推測をたてるとして、大原野村の一寺院が、これだけの銭貨をもち得ただろうか、ということも考えねばならない。
銭貨の全体およそ二〇万枚は二〇万文、一〇〇〇文を一貫文といい、全体は二〇〇貫文と数える。一五世紀末ごろの物価水準では、米一石がおよそ一貫文であるから、米で換算すれば約二〇〇石となる。ついでに他の物価にふれておくと、京都や奈良の物価では酒一斗が二〇〇文程度、大麦一石三七〇文、小麦一石五二六文、大豆一石一貫文、農具では鋤(すき)一丁九三文、鎌一丁二五文、衣料では絹一反一貫二五〇文、戦国時代後期にはじまる木綿は変動ははげしいが一反で一六〇文から八七二文程度、あかり用の油一升が九〇文から二五〇文、ろうそく一本が一〇文程度、杉原紙一帖が二五文から四五文程度、といったところである。またやや観点をかえて二〇〇貫文の重みをみてみると、文明十八年(一四八六)に多田院が多田荘はじめ米谷・山本荘などから一段別七〇文ずつであつめた段銭の合計が一四八貫文余、永正三年(一五〇六)には同じく一段別七五文ずっで一四七貫文余をあつめている。
二〇〇貫文は、個人の資産としては莫大な金額であるが、社寺などでは、現実に動かし得た金額であるといえよう。七つの壺が宝山寺のものと仮定して、信者の寄進や、加地子などを蓄積すれば、この程度は集積し得たかもしれない。そして寺院では、そうした資金を貸付け、利息をふやすことも一般にはおこなわれていた。これを祠堂銭(しどうせん)といい、徳政令の適用を除外されるなど保護をうけていた。宝山寺が祠堂銭による運用をおこなっていたかどうかまったく史料はないが、一般的にいえば、あり得たことであった。
七つの壺の銭貨は、どこか他所の地区からわざわざ運んできて埋めた、とみる必要はない。大原野の村にあった銭貨が、おそらく戦乱などによる紛失をおそれてかくされたものと推定するのが穏当な見方であろう。したがっておそらく時代は室町時代の後期から戦国時代のいつか、ということになる。遺物の内容とも、その解釈で矛盾はない。これが、いつ、だれが、なぜ、という問に対する解答である。