このようにみてくると、七つの壺いっぱいの貨幣は、西谷地区における中世後期の貨幣経済の盛行を物語る、何よりの記念品であるといえよう。これらの銭貨は、いずれも一枚一文として、現実に大原野の村々で通用したものであった。農民たちは生産物を市場で売却してこれらの貨幣を入手し、農具はじめ生活諸物資をその貨幣で購入し、また段銭や棟別銭を納入し、また年貢や公事なども貨幣で納入することがあったはずである。さらにより有利に貨幣を入手するため、米や麦の農作物の他に、なにか商品作物や手工業原料の生産がおこなわれ、また炭の生産や材木などの伐(き)りだしもおこなわれたかもしれない。
宝塚市域内にも、農民や国人たちが出入りする市が何ヵ所かあったにちがいない。だがその状況は、残念ながらいっさい明らかにすることができない。
芸能の作品ではあるが、狂言に『茶壺』というのがある。一人のすっぱ(詐欺師(さぎし))が「まかり出でたる者は、昆陽野の宿を走り回る心も直(すぐ)にない者でござる。今日は昆陽野の市でござるによって、あれへ参り、何ぞよいものもあらば調義(ちょうぎ)(調達)致そうと存ずる。まず、そろりそろりと参ろう」と登場する。昆陽野の道のまんなかに酒に酔うて寝ている男を発見し、背中の茶壺を盗(と)ろうとする。男は中国筋の者で、主のいいつけで山城栂尾(とがのお)に茶を買いにゆき、兵庫をさして下る途中、昆陽野の宿の知人のもとに立ちより、遊女たちから酒を強いられて、大道のまんなかに寝てしまっていたのである。すっぱと男が、茶壺をお互いわが物だといい争ううち、所の目代(もくだい)があらわれて成敗するといいだし、まんまと目代が茶壺を奪いとってしまう。戦国時代にはすでにおこなわれていた古い狂言であるが、西国街道に面した昆陽野には定期にひらかれる市があり、すっぱも出入りし、また遊女などもいて、にぎやかな情景を想像することができる。芸能作品とはいえ、昆陽野の宿と市のにぎわいは有名だったのであろう。
市域や周辺の市場に関しては、この程度の史料でがまんしなければならないのであるが、そうした市場の盛行と貨幣経済の浸透こそは、生産の発達をなによりも雄弁に物語るものであるし、農民の身分的成長と、村の発展に不可欠のことなのであった。