戦国時代の多田荘

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 西谷地区を含む多田荘と、米谷・山本荘に課せられる段銭と棟別銭は、戦国時代に入っても細川高国の時代まではひきつづき多田院の修造料として幕府から寄進されるならわしであった。多田神社文書には、戦国時代についても関係史料が蔵されている。おもなものを一覧表にして掲げると、表12のとおりである。
 

表12 戦国時代多田荘の段銭・棟別銭の史料

年月内容
長享1年(1487)8月管領細川政元、要脚段銭を多田院に寄進
3年(1489)4守護代、段銭・棟別銭等の国の催促を停止
明応3年(1494)11管領細川政元、要脚段銭を多田院に寄進
4年(1495)12管領細川政元、要脚段銭・棟別銭等を寄進
文亀3年(1503)3守護代、諸領主にあて段銭を多田院に納付させる
永正7年(1510)9幕府、即位段銭を免除、多田院に寄進
9年(1512)11幕府、段銭を多田院に寄進
(10年)(1513)12管領代、棟別銭の多田院寄進を伝達
11年(1514)5管領細川高国、御所造作料段銭の京済を命ず
12年(1515)10管領細川高国、要脚段銭京済により国の催促を停止
(13年)(1516)6管領代、棟別銭を永正10年のとおり寄進を伝達
(大永3年)(1523)9管領代、棟別銭先々のとおり寄進を伝達
享禄1年(1528)11細川晴元、段銭京済により国の催促を停止
天文8年(1539)10管領細川晴元、棟別銭を先例どおり寄進
10年(1541)7管領細川晴元、要脚段銭京済により国の催促を停止
22年(1553)3細川氏綱(?)、代替棟別銭を多田院に寄進
永禄2年(1559)6管領細川昭元、要脚段銭京済により国の催促を停止

〔注〕1.出典はすべて「多田神社文書」である 
   2.1件につき数通の関係文書がある場合がある 
   3.幕府の命令は、奉行人連署奉書、管領の命令は、管領代本書である


 
 ところで多田院は、段銭・棟別銭の徴収はいっそう困難になりつつあった。永正三年の徴収簿によれば、本田方佐曽利村の納分七貫六一〇文は「未進」と書かれ、新田方西長谷村の納分五一〇文も「未進」となっている。その他の村々にも未進が多い。それにはもとより種々の理由があるのであろうが、村の農民たちによって、段銭・棟別銭やそして年貢も公事も、納入を拒否されるようになった。荘園領主や幕府の権威は農民によってもはっきり否定されはじめたのである。
 そうした状況を前にして、多田院は守護の権力を利用して、段銭を徴収しなければならなかったようである。永正三年には、塩川太郎左衛門の斡旋(あっせん)で段銭催促の使が多田荘に入り、その接待も塩川が請負っておこなったとみられる。塩川氏が箕面に参寵したときも集めた段銭のなかから二八一文の酒、一三一文の餅を届けるなど多田院として塩川氏を歓待しているが、塩川氏の力をかりることなしに、多田院は段銭の徴収ができなくなっていたのであろう。
 それはしかし、塩川ら国人や守護・守護代の、おしかけであるというべきなのかもしれない。多田荘と周辺加納荘々の段銭・棟別銭免除、すなわち多田院への寄進は、足利氏の多田院信仰のいわばあかしとして長年の慣行であったにかかわらず、免除の幕府奉書を得るために、多田院は莫大な費用を支弁しなければならなかった。文明十八年(一四八六)には、ひろくかけられた将軍義尚の大将拝賀要脚段銭を免除し、催促を停止するように、という幕府奉行人から守護代にあてた奉書がだされているが、これを獲得するために多田院は雑掌を京都に派遣して交渉した。そのさい、守護細川政元へ三〇貫文の礼銭をだしたのをはじめ、安富元家・上原神六(しんろく)ら政元の側近や奏者・中間衆にまで心付をとられ、その運動費を多田院は事前に高利の金を借用して調達し、結局徴収した段銭一四八貫二五文のうち約半分の七二貫五五〇文が運動費や諸雑費に消えている。もっともこの七二貫余は、守護の権力に荘内を蹂躙(じゅうりん)されないための買収費であり、多田院はみずからの犠牲で守護権力から多田荘を守ったといえる。しかし永正三年には、徴収した段銭一四七貫三五〇文のうち八八貫五六〇文の運動費を使って、なおかつ守護の使を荘内に入れ、これを徴収しなければならなかった。永正三年の交渉は摂津上郡でおこなわれたが、このとき守護政元へさしだした分は「公用」と書かれている。このさいも八八貫余の諸経費をひいた残りは多田院の収入となっているから、段銭は免除されているはずであるが、多田荘や加納荘々の段銭は、守護やその家人・被官たちの大きな役得となっていたのである。
 そのことは、多田荘などの段銭がやがて免除されなくなる前兆であったといえる。さきにも述べたように、高国政権下の永正十一年から、多田荘および加納荘々の段銭は、多田院に寄進されることはなくなった。その結果従来の多田院による徴収に代わって、直接守護の権力が多田荘の村々から徴収してまわったはずである。棟別銭だけはひきつづき多田院に寄進されていたものの、この時期以後、多田荘および周辺加納荘々の段銭に対する特権はなくなったとみてよい。