武士勢力の荘園侵略は、段銭の徴収などを通じて農民に対する勢力をうえつけたあと、代官請負へと進むのがふつうである。
山本荘は、建武新政にさいし松尾社領として後醍醐天皇から安堵されたことはさきに述べた。その後の推移に関しては、断片的な史料を得るにすぎないが、室町時代中期の永享六年(一四三四)ころには、その支配は大きく動揺していたようである。永享六年、松尾社の遷宮がおこなわれ社領荘園がその費用を分担したが、山本荘は、これを負担しなかった。そのことに関して、神官の相言から松尾社担当の幕府奉行人飯尾肥前守為種らにだした書状が写として残されている。それによると、「山本荘は、由緒の深い荘園として特別に相伝されてきたが、今では非分(不当)に知行されている」といわれ、あるいは「昔から厳重の神領であったが、近年理由もなく女子が相伝し、こんどの遷宮役も一向に闕如(けつじょ)してしまった」といわれる。そのため代官を呼びだそうとしたが、代官はそれにも応ぜず、たびたびの要請によってようやく代官が伺候したような状況であった。
代官はだれであったのか、またつぎに述べるような形の代官請負であったものかどうかは、これらの史料からは明らかにならない。荘園の知行・相伝をめぐっても紛争があったようで、ことによると代官は現地の国人ら武士の請負ではなく、松尾社の下級神官らであったのかもしれない。しかし、相言から飯尾為種に対し「数通の証文や、康応元年(一三八九)の御教書(足利義満の御教書であろうが、現存しない)のとおりに、神領として社役を勤めるよう沙汰してほしい」と要請しているところをみると、松尾社領としては支配の危機をむかえていた、といわねばならないようである。
そうした状況でありながら、山本荘はともかく戦国時代まで松尾社領として維持されてきた。そして永正十七年には、屋形様(守護細川高国)が代官職となっており、年貢・公事物等は代官の下す使に納めるよう、「名主百姓中」に命じた文書が残されている。
代官請負とは、通常は年貢・公事の徴収を総額の五分の一程度の手数料で請負う制度をいう。荘園領主が荘官を通じて名主・百姓から年貢・公事を徴収することが困難となった結果、守護や国人など現地の実力者に請負わせるのである。しかし代官はおしかけである場合が多い。代官請は、やがて代官自身が未進をはじめ、困った荘園領主はやむなく年貢・公事の総量を減らして請切(うけきり)、つまり少々の災害があっても一定量だけを納入させるようにし、ついでまるまる代官に奪われてしまう。これが荘園が消滅するひとつの型である。このときの山本荘の年貢・公事の数量がどれくらいであったのか、またその後どうなったのかは明らかではなく、この史料を最後に山本荘は松尾大社の文書のうえでは姿を消してしまうが、山本荘もまた、このあと代官請のおきまりのコースをたどって消滅したとみてよい。
なお永正三年の多田院の段銭の徴収簿では、さきにもちょっとふれたように山本荘田所名九町五反余は池田遠江殿知行、同得久名一二町五反余は池田大西殿知行、同国安名七町六反余の段銭は三屋因幡方が取次をし、また百姓名地下分三四町七反の段銭については、城殿・源二郎殿らが詑言をして、五〇〇文の免除を願った、と記されている。池田遠江らが、山本荘の荘園としての区別にしたがって分割して知行していたことがわかる。このことと永正十七年の「屋形様」が代官職であることとの関係は明らかではないが、守護が松尾社から代官職を請負い、その被官人たちに分割して支配させていたものとみてよいであろう。池田大西らが、その知行地にきびしく課税してゆくことは、さきに久代村について述べた。山本荘は、結局これら守護被官人である国人の所領となってしまい、荘園としては消滅していったのであろう。