米谷荘に関しては、永正四年十一月に賀茂別雷(かものわけいかづち)神社の神官らの言上状が、延宝八年(一六八〇)に編纂(へんさん)して江戸幕府に提出された『賀茂注進雑記』のなかに写されている。その大要は、つぎのとおりである。
津の国米谷荘は、文徳天皇(在位八五〇~八五八)の夢想の告によって寄進された荘園で、代々の天皇が綸旨を下され、源頼朝も下知したずいぶんの神領であった。しかし公用不沙汰がつづき、後宇多天皇が賀茂社参籠の時夢想により廃絶を歎かれて荘園を尋ねさせられてかたく命令されたので、以後勅使荘というようになった。ところが近年一向に武士らに横領されてしまっていることは言語道断の次第である。しょせんお屋形様へ子細を申しあげて、知行を全くし、いよいよ祈禱の精誠をいたしたい。
すなわち、米谷荘は文徳天皇の施入によること、頼朝の下文のあといったん廃絶し、後宇多天皇の勅旨によって再興され、勅使荘とよぶようになった、という鎌倉時代以前の歴史がまず語られている。このうち頼朝下文の一件は第一章で述べたが、後宇多天皇による再建については、賀茂別雷神社自体の史料がいちじるしく不足し、史料によってあとづけることはできない。『賀茂注進雑記』にも、他にこのことは触れていない。このような言上状では、通常は証拠の文書を添えるものだが、それもなされていないところをみると、戦国時代に、すでに賀茂別雷神社にとって米谷荘の歴史は伝承の世界に属していた、というべきかもしれない。
そして戦国時代には、賀茂別雷神社領としてはまったく有名無実となってしまっていた。そこで屋形(守護)へ働きかけて、何とか再建しよう、というのがこの言上状の目的である。永正四年といえば、前述のように守護細川政元が殺され、細川氏にも家督をめぐる争いが火を吹いた直後にあたる。この紛争のなかでこの言上状は結局何ら効果を発揮し得なかったのではなかろうか。
米谷荘の名まえは、多田院に対する段銭・棟別銭の加納の荘園のひとつとして戦国後期まではたしかに存在する。しかし賀茂別雷神社領としては、こうして早くから有名無実であったようである。「きんねん(近年)一かうにわうりやう(横領)」というが、だれによって横領されていたのかは、明らかにすることができない。現地の国人らのほかに、多田院やつぎに述べる中山寺なども、賀茂別雷神社からみれば、横領者のなかに入るかもしれない。
勧修寺家領であった小林上荘は、前述した応安五年(一三七二)の譲状のあとは、現在の勧修寺家文書からはまったく姿を没してしまう。代わって小林下荘が、文明十年(一四七八)の、京都西山の三鈷寺の当知行目録のなかにあらわれる。当知行とは、じっさいに知行していること、つまり小林下荘は、文明十年当時には、三鈷寺領としてじっさいに年貢などの徴収がおこなわれていたのである。しかし三鈷寺にも他に関係史料が少なく、その実体を追求することはできない。