荘園解体の意味

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 荘園はふたつの方向から、すなわちひとつは農民が年貢・公事の未進を通じて荘園領主の権威を否定してゆくことから、いまひとつはその農民を支配する国人に横領されることから、消滅の道を歩んだ。
 第一巻で述べたように、荘園は、律令制の解体のあと成長した私領主たちが、受領とのたたかいのなかで私領を守るために中央の権門勢家に寄進したことから成立した。荘園の成立とは寄進によって私領主たちが実質的な支配権を残そうとした結果であるが、同時に荘園領主の家産経済の一環にくみこまれることであり、荘園に住む人々が荘官職や名主職などの身分秩序に位置づけられることであった。
 そうした荘園の秩序が、中世の生産と社会の発展の条件を整備した。田堵(たと)から名主(めようしゅ)へ、名主の下からさらに作人が成長し、鎌倉時代後期から、小名主や作人を中心に村ができはじめ、一方村をはみだした国人層が成長した。小名主・作人を中心とする村ごとの団結の高まりと、国人層の成長とは、荘園のわくのなかに育ち、やがてこれらをうち破ってゆく力であった。その段階から、荘園のわくは、社会の発展をおさえつける桎梏(しっこく)となった。村に結集する農民と、その村を支配しようとする国人とは荘園とたたかうことで成長したといってよい。
 

写真81 戦国時代の農民の姿「洛中洛外図屏風」より(上杉隆憲所蔵)


 
 南北朝の動乱は、村の歴史にたっていえば、荘園制に対する村びとの果敢なたたかいであった。しかし動乱は、荘園領主権力と妥協した室町幕府を成立させることで、ひとまず収束した。国人の力が、まだ国人だけで新しい政治権力を樹立するほどには強くなかったからである。幕府のもとで荘園はしだいに有名無実となりながらも存続した。
 しかし一四世紀は下剋上の世紀といわれるように、村ごとに団結した農民のはげしい土一揆のたたかいから、武士階層内部の上下の交替まで、あらゆる階層の内部で深刻な争いが進行し、政治の流れは応仁の乱から戦国動乱へと展開した。その間に村は荘園に代わって、完全にひとり歩きができるようになった。そして国人たちが戦国動乱の主人公となり、荘園領主と守護に代わる新しい支配者をめざした。荘園はそのわくのなかから国人と新しい村とを巣立たせたことで、その歴史的使命をとじたのである。
 荘園の解体過程で、名主職が分解し、加地子名主職や作職が発生して、土地関係は重層化し複雑化した。しかし戦国時代に入ってその複雑化は整理の方向にむかった。耕作農民が、耕作に関する権利をさらに強め、国人たちが荘園を押領してその農民を支配することで、支配者と被支配者だけの、中間得分者を排除した形での単純化である。だがその実体を説明するじゅうぶんな史料はみいだせない。荘園の消滅とは、荘園領主側の史料がなくなることであり、荘園解体期の実情は、荘園領主に代わる村の史料によらなければならない。市域内には、戦国時代の村の史料は、まったく存在しない。しかしこの段階から二、三〇年もすると、はるかにくわしく村の姿をながめることができる。ここでは、いまやまったく古い殼となってしまった荘園が、こうして消滅した筋道だけを説明して、次章を期待することにしよう。
 

写真82 中山寺の町石(中山寺華蔵院所蔵)