観音信仰の霊場中山寺への信仰の歴史は平安時代にはじまることは第一巻で述べた。鎌倉時代後期にはじまる新しい村の発展は、三十三所の霊場にも新しい歴史を開くことになった。広く農民にも自覚的な仏教信仰がひろまり、一方生産の発展、身分向上からくる生活の余裕の発生が、庶民にも霊場巡りにおもむかせる機会を与えた。いうなれば信仰とレクリエーションの旅の機会を提供したのである。これまで、寺院の有力な檀越(だんおつ)(檀那)であった貴族が没落したのにひきかえ、巡礼して歩く庶民の群が、寺の財政を支えるものとして登場した。
中山寺が記録にあらわれることは多くはない。たとえば「御産御祈目録」では、建武二年(一三三五)正月、後醍醐天皇中宮の平産祈禱にさいし、三十三所観音霊場の一として中山寺も他の諸寺と同様に、能登兵衛尉信高が奉行となって読経をおこなったことをのせている。中山寺に対する安産の帯加持の信仰が古いことを思わせるが、このときは三十三所観音霊場すべてがおこなっているので、中山寺だけの信仰ではない。明治四十五年刊行の『紫雲山(しうんざん)中山寺記』は後白河法皇の信仰やこの後醍醐天皇中宮の平産祈禱を特筆しているが、しかし中山寺への信仰は、皇室・有名武家・貴族の個々の信仰とともに、庶民のひろい信仰のなかでも深められてきたことを注意すべきであろう。
その点で特筆されるのは、右の『寺記』にもとりあげられているように、世阿弥作と伝えられる謡曲「満仲」(仲光)に中山寺が登場することである。この謡曲は、いわゆる美女丸伝説を題材としたものである。多田の満仲は、子の美女丸をあたり近き中山寺に入れていたが、美女丸は武勇をたしなみ、学問には身を入れなかった。お経の一字も読めず、和歌も詠(よ)まず、管絃はもとよりできぬ。満仲は家臣の仲光を呼んで、美女丸を殺すことを命じた。仲光はしかし主命といえども、「早く首をとれ」という美女丸をどうしても殺すことができぬ。あわれ仲光が同じくらいの年ならば、「御命に代り候はんずるものを」と歎くのを聞いた仲光の子幸寿丸が、美女丸の命に代わろうという。煩悶(はんもん)の末、仲光はわが子を斬る。
やがて美女丸をつれて叡山の恵信僧都があらわれ、事の次第を満仲に語る。満仲は、美女丸に、幸寿丸を身代わりに殺したのならなぜ自害しなかったかと怒るが、恵信僧都は、幸寿丸の仏事のために美女丸を助けるよう懇願し、満仲も了承する。仲光は幸寿丸に会った心地がして、幸寿丸が居ればと涙ながらも、その涙を感涙にして舞い、美女丸に学問にはげむようさとす―親子の情と、君命の重さに苦しむ武士の悲劇を描いたものだが、その舞台に中山寺がとりあげられているのである。
美女丸は実在の人物で、のち法名を源賢という。その源賢に、このような事件があったかどうか、深く詮索(せんさく)する必要はあるまい。謡曲は伝承に取材して室町時代初期に成立し、能として上演されて観客の涙をしぼらせた。中山寺が、観客にも周知の寺であったことが判明する。
このような庶民の信仰に支えられている以上、その信仰の実体は文書の史料としては残りにくい。中山寺に伝存する中世文書は数点をでない。寺では応永三十年(一四二三)の火災を伝えているが、火災などもあったのであろう。数すくない文書のなかで、文明八年九月二十四日付多田荘米谷村のうち新田分年貢の寄進状、永正四年七月吉日付の塩川加賀入道正吉の新開畑の寄進状が注意される。前者は永性・永朝の奉書の形となっていて、寄進主が明瞭ではないが、米谷村には多田荘新田方一町三反六〇歩が存在した。これを寄進できるのは、多田荘政所であるが、はっきりしたことはわからない。また塩川の寄進状は、山内独鈷尾(とこのお)の五反の畑を、寺の菜園畑として寄進するという。塩川一族の寄進状は多田神社にも多数残されている。周辺国人層によっても、中山寺が深く信仰されていた証拠となるものである。
なお、大永三年五月十八日付で、中山寺と清澄寺との境界争を裁決した塩川国満の判物があるが、この文書には疑問が残る。さきに述べた貞治二年の佐々木道誉の文書も引用されているが、ともに問題があるようである。
つぎに多田神社文書によって、中世の中山寺は多田院と関係の深かったことが判明する。永正七年二月付で、中山寺は多田院の末寺であるのにかかわらず、新規を構えて勝手に金堂供養をおこなったと、高義から中山寺年行事を叱責した書状等がある。また永禄六年二月二十四日には、多田院住持尊珠大徳を導師に、大和西大寺や中山寺寺僧が職衆となって金堂供養のための曼荼羅(まんだら)供養がおこなわれたとする記録がある。多田院と同様、律宗をも加味した寺として存在していたことになる。美女丸の伝説にみるように、中山寺と多田荘・多田院との関係は深かったのであろう。ただしその間の関係を、いま一歩つっこんで明らかにする史料はないようである。
ともあれ、文献のうえからは、中世の中山寺の歴史は多くをたどることはできないが、中世の庶民の信仰をしめすなによりの遺物がある。中山寺への参道に建てられていた町石である。現在、中山寺塔頭(たっちゅう)華蔵院の境内に保存されている町石は高さ九一・八センチメートル、永正十四年(一五一七)八月十八日の銘があり、六丁と刻まれている。中山寺本堂まで、六丁(約六〇〇メートル)の距離をしめす。この町石は、その後江戸時代に道標として再使用されている。他には川西市加茂の阿弥陀寺に保存されている一基があるにすぎないが、もともと一町ごとに建てられていたものであった。「あとなん町」と町石にはげまされながら、疲れた足をはげましたであろう善男善女の姿を、この町石は彷彿(ほうふつ)とさせてくれるのである。