三好長慶は、天文十八年(一五四九)六月、前述のように江口(大阪市)の一戦で三好政長を敗死させ、細川晴元を失脚させて、実権を握った。摂津地方では伊丹親興がただひとり長慶に反対したが、伊丹城を包囲され、やがて親興も長慶と講和して、摂津地方も完全に長慶の支配下に入った。
天文二十一年、将軍義輝と長慶の和がなって義輝は帰京した。長慶はまた細川氏綱(うじつな)をたてて細川氏の家督とし、流浪中の細川晴元から幼児の聰明丸(のちの昭元)を人質にとった。こうして長慶は細川氏の実権を握った。だが、晴元は入京の機会をうかがい、これに呼応して反長慶の国人らがあいついで行動を起こした。天文二十一年四月に長慶は丹波八上城(篠山町)を攻めたが、寄手のなかから長慶の妹婿であった芥川孫十郎や池田出羽守らが寝がえり、将軍義輝も晴元方の行動を支持した。天文二十二年には、塩川国満や多田衆が、芥川城を支援して池田表へうってでた。長慶は河内守護畠山高政・同守護代安見直政らとともに京都に入って将軍義輝を追い、ついで芥川孫十郎のこもる芥川城を攻略した。
長慶はそれまで越水城を居城としていたが、この後芥川城が本拠となった。長慶は京都には入らず、芥川城を拠点に、五畿内はじめ播磨・丹波方面を制圧しようとした。幕府はもはや完全に有名無実となり、長慶は畿内をまとめる戦国大名の道を歩みはじめたといえよう。
永禄元年(一五五八)、将軍義輝は京都回復をめざして攻め寄せ、伊丹・池田氏ら摂津国人衆は、松永久秀とともに長慶側に立って京都で戦っている。長慶方にはさらに四国・淡路の援軍が到着し、永禄元年末に至って義輝・長慶の再度の講和が成立した。
このころ、河内国では畠山高政と安見直政の対立が表面化した。はじめ長慶は高政を支持したが、やがて対立し、永禄三年長慶は高政を攻めて高屋城(羽曳野市)・飯盛城(東大阪市)を奪い、永禄三年十一月、長慶は芥川城から飯盛城に本拠を移した。河内・大和の征服戦には、伊丹氏ら摂津の国人衆も動員された。
永禄四年三月、将軍義輝は京都の長慶邸を訪問した。将軍の来訪をうけるため、長慶はわざわざ新第を造営したのだが、形式上細川氏の家臣である長慶邸を将軍が訪問することはまったく異例に属する。このとき伊丹・池田氏らも長慶邸の役を割りあてられているが、長慶の全盛の威勢を示したものであった。永禄四年五月には出家して一清と号していた細川晴元とも講和し、晴元は富田(とんだ)(高槻市)普門寺に入った。
しかし長慶の没落も早かった。河内を追われた畠山高政や近江の六角義賢らが反長慶の行動を起こした。これに対し長慶方では、弟の十河一存が永禄四年に死に、阿波の三好義賢(実休)も永禄五年戦死した。永禄六年三月には晴元が普門寺で病死して反対派とのつながりを失い、同年八月長慶の嫡子義興が芥川城で病死し、同年十二月には細川氏綱もまた淀城で病死してしまった。こうして政治的にしだいに孤立を深めた長慶は、永禄七年五月に弟の安宅冬康を飯盛城で殺した。松永久秀の讒言(ざんげん)によるといわれる。そして同年七月四日長慶自身も飯盛城で病死してしまった。その死は三年間かくされ、永禄九年にやっと葬儀がおこなわれたという。