松永久秀の時代

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 長慶の晩年から、松永久秀は長慶の実権を奪い、五畿内をほしいままに支配する実力者であるといわれた。細川氏は三好氏に、三好氏は松永氏に実権を奪われた。ここにも下剋上の一典型をみることができる。
 久秀の出自ははっきりわからないが、山城西岡(向日市付近)の出身ではないかとされる。長慶の武将となって立身し、永禄三年には弾正少弼に任命されたので、松永弾正と通称される。そして永禄八年五月には、将軍義輝を京都二条の屋敷に囲んで敗死させた。
 

写真85 松永久秀の屋敷「洛中洛外図屏風」より(上杉隆憲所蔵)


 
 こうして実権を握った久秀に対し、三好政康・同長逸(ながゆき)・岩成友通(いわなりともみち)のいわゆる三好三人衆がたちまち対立し、永禄九年河内・和泉を舞台に合戦となった。五月、松永は堺へ陣どり、池田勝政ら摂津国人衆は三好方について松永攻撃陣に加わった。だが伊丹親興は、このときも池田氏と対立し、久秀側について堺に入った。合戦は、自治都市であった堺の会合衆(えごうしゅう)の仲介によって回避されたが、帰城にさいし池田勝政は伊丹の領内を放火したという。池田・伊丹氏の利害は最後まで一致しなかったわけだし、そうした利害の対立が、摂津の国人たちを、堺や河内など遠方の合戦にまでかりたてていったのである。
 このころ阿波にいた足利義親(義栄)が、義輝のあとの将軍の地位をねらった。その先鋒(せんぽう)として篠原長房が永禄九年六月兵庫に上陸し、越水城や伊丹城を攻めた。三好長逸がこれを支持し、三好方は摂津・山城で優勢となった。こういう情勢のなかで九月には伊丹氏も三好方となり、義栄は越水城に入り、ついで富田普門寺へ移った。
 池田勝政は三好三人衆に加わり、久秀を攻めて大和方面にも転戦した。永禄十年十月十日、久秀は三好三人衆が陣所とした東大寺大仏殿を焼き討ちした。大仏殿のなかには、池田氏の陣所もあった。