織田信長の登場

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 摂津地方の戦国争乱は、こうしてはてしなくつづけられた。だがこの間に、日本の情勢も世界の情勢も、大きくすすんでいた。三好長慶と将軍義輝の再度の講和ができた永禄二年二月、尾張の織田信長が入京して義輝と会見した。その直後には上杉景虎も入京している。畿内地方に進出して天下統一をめざす新しい勢力が大きく台頭しつつあったのである。
 天文十八年(一五四九)には、キリスト教の宣教師フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸し、そのあとを追って宣教師たちがぞくぞく来日して、ヨーロッパの文化と文明を伝えつつあった。松永久秀の横暴ぶりも、宣教師のヨーロッパヘの報告のなかに伝えられている。戦国の世に強力な新兵器となった鉄砲がはじめて種子島(たねがしま)に渡来したのは天文十二年であったとされている。その数年後には、鉄砲は早くも畿内の戦場に登場して、大きな威力を発揮しはじめた。
 将軍義輝が久秀に殺されたあと、奈良の一乗院にいた義昭は、幕府再興を意図して越前朝倉氏にたより、ついで織田信長に迎えられた。信長こそ、畿内の大名や国人とちがって、日本全国の情勢をみてとったばかりでなく、ヨーロッパ文明をも理解する器量をもち、尾張という経済的にも地理的にもめぐまれた地域に位置した新しい勢力であった。
 永禄十一年(一五六八)九月二十六日、義昭を奉じて上京した信長は、息つくひまもなく山城国乙訓(おとくに)郡を制圧し、三十日には山崎に進出して芥川城にいた細川昭元・三好長逸を退散させた。これにつれて越水城の篠原長房らも退城し、義昭は芥川城に移った。十月二日、信長は池田城を囲んだ。池田勝政はよく守って激戦となり、双方討死する者が多かった。そこで信長は城下の町に放火し、勝政もついに降参してしまった。
 池田城の陥落をもって、畿内地方の信長に対する武力抵抗はひとまず終わった。松永久秀は名物の茶器「つくもかみ」を進上して信長に降伏した。信長は芥川城に一四日滞在し、堺など各地に軍資金を課するなど、きびしい態度でのぞんだ。信長滞在の間、芥川の城に進物をささげる人々で「門前市をなす事なり」といわれるが、信長によって中世の残滓(ざんし)は一掃され、新しい秩序が建設されることになった。