解題・説明
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旧武家屋敷の地区(空町)が畑地となっている絵図である。町家などの建物は海老茶、耕作地は薄黄色で採色され、東山と山麓の寺社が鳥瞰式で描かれている。空町等の武家屋敷跡はほとんどが耕地化され、武家地は陣屋とその周辺の地役人屋敷のみとなり、高山は町人中心の町となった。また四方へ発する道が阿多野道(江戸街道)宮道(益田街道・尾張街道)川上道(郡上街道・白川街道)古川道(越中街道)八賀道(平湯街道)と記される。古城跡(城山)の西方、宮川沿いの用水路上に並ぶ建家は、水車を利用した搗屋(米等の穀物を精製する小屋)で、図には8カ所ある。この用水は俗に搗屋川とも呼ばれた。しかし本来この用水は高山町の防火用に設けられたもので、享保8年(1723)町年寄矢島茂右衛門発起、大工松田太右衛門が世話人で三町内の側溝が堀り通された。
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