この絵図は、金森の家臣団の内、五拾石ヨリ三千石マデの武家氏名を表したものである。元禄5~8年(1692~1695)に金沢藩が作製した城下町絵図家臣名記載の絵図(後頁掲載の第12図)より武家の表示が少なく、50石以上に絞り込んでいるのが、この絵図の特徴である。この絵図に描かれている高山城の城郭姿図は、延宝4年(1676)及び寛文3年(1663)に、幕府へ提出された城郭石垣修築届出図面と同様である。
寺社は、右上に「守屋旧神」左に八幡宮は鳥居のみ、「長久寺」、右に日枝神社は「山王」とある。また、大隆寺は、現在、池の西側高台にあるが、金森時代は池の東側にあったことが文献で知られている。絵図でも、金森時代の大隆寺が池の下に描かれていることがわかる。
左の「金森左京殿」屋敷は大きく描かれ、柵に囲まれた馬場の左には「国太夫」と記される。下方の「金森伝八殿下屋敷」も大きく描かれるが、金森家の下屋敷(現在の高山陣屋)は白地で表記がなく、枠のみ記される。
桝形橋を東に渡った場所は「桝形」である。石垣の上に「御殿」とあるが、前頁第4図では番所、後頁第9図では「御役所」と表記されている。現在の正雲寺の場所である。