この絵図も、前頁第7図と同じく武家屋敷の氏名表示が少ない。何回目かの写しであろうが、色彩は残りが良い。図の説明は省かれている。
桝形橋の東へ渡ってすぐの桝形に「御役所」と表示があり、前頁第7図では「御殿」とあったが、高山城の大手にあたる重要な場所なので、ここには何らかの目的をもった役所があったことがわかる。この御役所から「山王(現・日枝神社)」への道が描かれ、また、道路より高台にあたる場所なので、この場所は現在の「正雲寺」敷地の所と思われる。
馬場の表示は①左京屋敷の西隣、②伝八屋敷の前(東隣)、金森下屋敷前が見られる。
街道は、東西南北の四方向と平湯街道の道が表わされているが、名称はない。郡上、白川街道は国分寺の前を通って西進する道のみが描かれ、八軒町方面からの道は描かれていない。
城郭の姿は延宝、寛文時代の城郭絵図と同じであるが、本丸屋形の屋根棟上のシャチの有無で判断するとしたら、延宝の高山城姿図となる。元禄5~8年の金沢藩による城郭図ではない。