第13図は安川通以南の武家屋敷跡の割地絵図で、各区画毎に通番が記され、間口・奥行の間数が記される。区画数は全部で577あり、残りの138は安川通以北の分である。
この時破却された屋敷は239軒(109軒侍家、130軒扶持人家)で、大きな屋敷跡地は幾つかに分割されるなど、割地の区画とは異なっている。
元禄5年(1692)の金森氏転封後、飛騨は幕府直轄地となり、幕府から代官が派遣され、高山城は代官とは別に加賀藩が管理した。しかし同8年、城は廃城と決まり、6月にその破却が終了し、この時城下の侍屋敷も同時に壊されている。8月、伊奈代官は城地・侍屋敷の跡地の処分について勘定所に対して「跡地は約十九町歩あり、城下の本町と端々の町人へ割地すると一軒あたり壱畝歩程と少なく、本町内の七百十五軒へ渡すと弐畝歩余となる。割地した土地は田畑に開墾して後に検地したらどうか」といった伺いをたてている。
これに対し「本町内の者だけに割地し、当面は検地帳の高の外へ記し、開墾後検地を行ない年貢高に加えるべし」と回答があった。また11月には城や侍屋敷の毀道具や樹木を町人へ払い下げており、跡地はまったくの更地となった。元禄10年6月、町人から割地証文が出されたが、これには「各区画の土地の善悪・広さの過不足があるが、三町の組頭が交替で割場にて立合、各々相談・くじ取によって決める。また両者立合で境杭を打ち、後に境論がない様にする。割地内には家を建てない。年貢は仰付があり次第上納する。」といった内容で、平均的な1区画は5間に20間程の約100坪位であった。
割地後は年々相応の見取年貢を納めていたが、享保9年(1724)代官長谷川忠国の時に検地が行なわれ、正式な年貢地となった。
第14図も同じく侍屋敷跡の割地絵図で、割地が薄茶となっている。町家と武家地の割地が混在しているところは、わかりやすいように町家が濃い茶色になっている。町家は割地の対象外で、城、三町も対象外で、白ヌキになっている。
第13図と同じく、武家屋敷は全て取りこわされ更地になり、「割地」の表示が全てなされる。当初、家は建てることができなかった。えび坂が改修前の形なので、文化15年(1818)以前の絵図である。