高山町絵図(第17図)

高山町絵図[目録]


 この図は前頁第15図と共通する記載があり、神明町通りの搗屋8カ所、道路の線形など類似する。矢嶋家旧蔵絵図である。
 江戸時代後期になると、空町の侍屋敷跡の耕地にも、島川原町の通りを中心に町家が増えている。また高山町の西側に隣接した家並は、花里町・七日町村の地内で町方と呼ばれ、建家人口は高山町、地処は村方の管轄下に置かれた特殊な地域であった。ここがすべて村方に返されたのは明治20年になってからである。
 幕府直轄地時代の、高山町絵図の年代を推定する上での目安にえび坂の改修がある。これは文化15年2月から文政元年6月までの4カ月間で、途中で曲がっていた坂を直線に変更する工事が行なわれた。この工事については「衣斐坂御普請出来形仕上り帳」によると、坂の上方長さ28間、平均巾4間、同深さ2間を掘り下げ、曲りの所は長さ5間、平均巾6間、同深さ5尺を掘り下げている。また坂の北側27間と南側に13間2尺、高さ平均27尺の石垣を積み上げている。
 えび坂改修の翌文政2年6月には中橋下手に始めて筏橋が架けられた。金森時代の桝形橋の記載はない。