解題・説明
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第26図は天明4年(1784)3月20日の火災範囲と、寛政8年(1796)7月6日の火災範囲が赤で記される。天明4年の火災は、『高山消防』65頁の高山町火災年表の記載によると夜9ツ時(午前0時)、一之町2丁目から出火し、2,342軒が全焼し、寺院11カ寺が燃えたとある。寛政8年の火災は、夜寅の刻(午前3~5時)に三之町2丁目から出火し、442軒が全焼したとある。東西の安川通り以南の大火であった。天明4年の大火は、北は大新町から南は町会所(神明町・高山町役場)までと、空町の照蓮寺(高山別院)周辺などが焼ける大火であった。第27図は天明7年(1787)、天保3年(1832)、嘉永3年(1850)、明治、大正時代の類焼図である。天保3年11月の大火は498軒が全焼した。同年3月にも東川原町で、119軒が全焼した。第28図は享保7年(1722)、天保元年(1830)、明治、大正時代の類焼図である。この中で、特に大きな火災は明治8年4月24日の大火災で、午前11時30分、二之町家屋の薪小屋より出火、1,032軒を全焼した。現在に近い時期で類焼軒数の多かった大火はこれが最後となる。大正9年よりガソリンエンジンの消防ポンプを導入、以後消防の機動力は増し、大火が減少してゆくことになる。明治8年の大火は広範囲であったが土蔵は類焼せず、土蔵屋根の復旧、町家の再建も進んで以前の整然とした町並みが整備されていった。第29図は、明治12年の火消組まとい目印と人員等である。各組のまといと旗の目印を参考にして、10組の目印を整理したものである。前頁第22図に高山町夜番所位置図を掲載しているが、高山城下町の火災予防に火消組は大きく貢献してきた。天明3年(1783)正月、大原郡代は、大工、木挽職の152人に火消の役を勤めさせ、木製の御用印鑑を持たせた。文化11年(1814)には夜廻りが始まり、文政13年(1830)から5つの火消組ができ、「講」もできて10組となった。嘉永4年(1851)には陣屋前で火消組が駆け出しを行い、これが出初式の始まりといわれる。
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