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前三世紀頃年
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町内各地から弥生式土器が出土、丸木舟や石器の出土(金石併用時代)、住居跡などにより村落があったことがわかる
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前二〇〇〇頃年
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多古町の各地から縄文土器が出土し、貝塚があり、数千年前から人々が生活していたことがわかる
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一三五年
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135
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成務天皇の時、須恵・馬来田・伊甚・上海上・菊麻・武社・阿波の七国造をおき、この地方は武社に属した
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二八五年
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285
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応神天皇の時、下海上・印波、両国造をおき、この地方は下海上に属した
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三世紀後半~七世紀年
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700
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この頃の古墳が、町内に三〇〇基以上見られる
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四八八~五〇六年
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506
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仁賢・武烈天皇の頃、物部小事大連によって匝瑳郡が建てられる(続日本後記)
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大化元年
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645
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諸国に国司を置き、下総国府を東葛飾郡国府台におく(文化史年表)
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大化五年
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649
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海上・印波、両国造の部門をさいて香取郡をたて、香取神宮の神郡とす(文化史年表)
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大宝三年
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703
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上毛野朝臣男足、下総国司となる。長官任命の最初である
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天平元年
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729
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飯笹瀧門寺建立といわれる
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天平宝字中
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764
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寺作に律宗土橋阿弥陀院(後に東禅寺)、北場に東燿寺(現在の浄妙寺)建立といわれる
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宝亀三年
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772
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東松崎字稲荷山に松崎神社創建と伝えられる(社伝)
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延暦一六年
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797
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次浦惣躰神社創建といわれる(社伝)
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大同元年
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806
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空海、多古に妙薬寺を建立と伝えられるも不詳
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大同元年
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806
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多古、大宮大神創建と伝えられる(社伝)
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大同三年
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808
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東松崎顕実寺創建といわれる。牛尾白幡神社勧請(社伝)
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弘仁二年
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811
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空海、多古地方巡歴の伝説あり
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承和中年
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847
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仁明天皇の時、北中に六所大神創建と伝えられる(社伝)
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天慶元年
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938
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林に小島政国あり(長者屋敷)
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長元元年
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1028
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良文の孫忠常反乱、誅せられる。その子常将始めて千葉氏を姓とする
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長元元年
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1028
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松崎神社兵火にかかりしを再建す
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長元四年
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1031
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坂並・公ガ辺田台に城を構え、太太長者といわれた忠常の二子中村太郎忠将、父の叛乱に党して源頼義のために滅ぼされる(中村誌)
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永承元年
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1046
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中村小太郎常方(忠将の嫡子)が、中城(鴻の巣台)にいた(中村誌)
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永承六年
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1051
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常方、源頼義に従い前九年の役に参加、勲功ありと伝えられる(中村誌) 良文より五世の常長及びその子常兼(大椎城)常晴(相馬五郎)・常房(鴨根次郎)頼常(原四郎)常益(岩部五郎)常余(栗源太郎)も頼義に従って同戦に参加(千葉伝考記他) なお、大原内の妙見宮は常長の勧請といわれる(多古由来記)
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保延元年
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1135
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千葉常胤が家督を継ぎ下総介となる(千葉大系図)
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治承四年
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1180
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常胤その孫成胤と共に、平忠盛の女婿千田庄領家判官代・千田親政を攻めてこれを捕虜とし頼朝に献ず
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治承四年
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1180
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常胤弟(或は胤政九男ともいう)胤幹・その子胤氏千田庄領主となると伝えられる
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治承四年
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1180
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源頼朝千田字仮屋に来り、数日滞留せりと、不詳
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文治五年
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1189
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頼朝、安房・上総・下総等諸国の地頭に命じて荒地を開墾せしむ(吾妻鏡)
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30
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正治二年
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1200
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この頃多古附近は千葉氏一族の支配となる、多古城主妙見を勧請す
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仁治元年
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1240
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林愛児塚古碑あり
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文永二年
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1265
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谷三倉に板碑あり
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建治元年九月
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1275/9
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北条時宗は元の使者を龍の口に斬り、関東の兵馬をして北九州沿海の警備に当たらせる
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建治元年
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1275
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この頃十三代千葉介頼胤その嫡男宗胤、九州に下り肥前国(佐賀県)小城郡晴気城に居住、関東千葉介は宗胤の弟、胤宗となる
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正応二年
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1289
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出沼に板碑あり
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永仁元年
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1293
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この頃、千田胤貞(宗胤嫡男)が香取郡千田庄飯土井城に在城と伝えられている
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正安二年
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1300
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横宿に正峰山妙興寺建立、開基日弁(寺伝)
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元応元年
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1319
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西谷に正東山日本寺建立、開基日祐(寺伝)
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延元元年
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1336
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この頃、建武中興の失政により関東大動乱となる 七月、千葉介貞胤方は大原に国中の軍勢を集め、在地武将胤貞方の所領なる並木・大嶋・土橋(御所台)の諸城を攻む、土橋城遂に陥落す(金沢文庫古文書)。十月、貞胤木の芽峠で足利軍に降る なお当時、湛睿和尚が金沢文庫のある称名寺と、寺作東禅寺の長老を兼任、東禅寺は関東学僧の学問所として隆盛を極めたが、この動乱によって次第に衰えた(同上湛睿書簡)
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正平元年
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1346
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称名寺三世長老湛睿入寂(金沢文庫文書)
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正平元年
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1346
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北中東耀寺了整、日祐に帰依し寺名を法性山浄妙寺と改め日蓮宗となる(中村誌)
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正平一二年
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1357
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日祐下総に布教し、真言宗その他の寺院にして日蓮宗に改宗するもの多くなる(中村誌)
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正平一四年
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1359
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日祐、染井原法華堂(後妙光寺となる)開堂式に臨み供養を行う(妙光寺伝)
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文中三年
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1374
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中山法華経寺三世日祐が入寂
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天授二年
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1376
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ひげの祖師像、円城寺胤朝多古妙光寺へ寄進(寺伝)
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応永一〇年
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1403
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飯笹宇賀神社創建(社伝)
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永享二年
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1430
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千葉介胤直千葉城主となる
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享徳三年
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1454
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この頃、中村但馬守が中城に居り、胤直に従って上杉党となる(中村誌)
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享徳三年
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1454
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千葉胤直上杉氏に党し、これより千葉氏の諸族成氏党、上杉党に分かれて争う
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50
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康正元年
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1455
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成氏党、原胤房・原胤茂、千葉城を攻む、遂に落城。城主胤直その子胤宣逃れて多古城、島の砦に拠り上杉勢の来援を求む。幕張城主馬加康胤、原氏に加勢し、八月十二日多古落城、十四日島落城。胤宣は武佐阿弥陀堂で、胤直は土橋如来堂で自刃。馬加康胤千葉介となる
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