災害年表

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No 時代 年月日表記 西暦 できごと 出典 関連 備考
1 文武二年九月七日 698/9/7 下総大風、百姓の盧舎を壊す(続日本紀)
2 大宝二年九月十七日 702/9/17 下総等五国飢により、使を遣して救恤す(続日本紀)
3 和銅二年一月二十一日 709/1/21 下総疫す、薬を給しこれを療せしむ(続日本紀)
4 天平勝宝四年二月五日 752/2/5 下総旱蝗飢饉、これを賑給す(続日本紀)
5 天平宝字六年三月二十九日 762/3/29 下総等九国旱(続日本紀)
6 天平神護元年三月四日 765/3/4 下総等五国旱、詔して本年の調庸一〇分の七、八を復せらる(続日本紀)
7 神護景雲三年三月十九日 769/3/19 下総飢う、これを賑給す(続日本紀)
8 天応元年一月十九日 781/1/19 下総飢之賑給す(続日本紀)
9 延暦四年十月 785/10 下総等の四国、去る七、八月大風五穀を損傷し百姓飢饉するを以て、使を遣して之を賑恤す(千葉県誌)
10 延暦一六年三月二十七日 797/3/27 下総飢う、使を遣して賑給せしむ(日本後紀)
11 弘仁九年七月 818/7 下総等諸国地震。八月十九日、使を遣わし、地震のあとを巡省せしめ、賑恤を加えらる(類聚国史)
12 承和二年三月十六日 835/3/16 下総飢う、これを賑給す(日本後紀)
13 承和一〇年六月二十五日 843/6/25 上総・下総等十八国飢う、勅して賑恤を加う(日本後紀)
14 貞観六年十一月二十二日 864/11/22 下総国葛飾・印旛・相馬・埴生・猿島五郡の百姓に対して二カ年の調庸をゆるす、頻年水旱の害をこおむるによる(三代実録)
15 貞観八年八月二日 866/8/2 下総飢う、これを賑給す(三代実録)
16 天慶元年五月十三日 938/5/13 上総国一帯に悪疫が流行して住民多数が死亡したので、朝廷から大量の救護品が下賜された(文化史年表)
17 建仁元年八月十一日 1201/8/11 大風雨、下総葛飾郡の海溢れて千人余漂没す(吾妻鏡)
18 建長二年一月十三日 1250/1/13 香取・結城地方に豪雨があり、麦畑が流失するなど相当の被害があった(文化史年表)
19 建長四年四月二十三日 1252/4/23 夜に入って房総一帯に豪雨があり、大地震が起り被害が甚大であった(文化史年表)
20 文永元年八月 1264/8 安房上総疫癘流行す(文化史年表)
21 文永七年 1270 房総諸国疫癘流行す(文化史年表)
22 元弘元年 1331 関東に大地震あり(文化史年表)
23 明応七年八月 1498/8 近畿・関東諸国大地震あり、房総の地被害多し(千葉県誌)
24 天正一八年二月十六日 1590/2/16 関東諸国大に震動す房総及び常陸被害最も多し(千葉県誌)
25 慶長六年十月十六日 1601/10/16 房総の地大に震い山崩れ海埋まり、或は平地丘陵を作すものあるに至る(千葉県誌)
26 慶長一四年九月 1609/9 暴風あり(千葉県誌)スペイン船房州に漂着
27 慶長一九年 1614 大飢饉にて妻子を売る事夥し(文化史年表)
28 寛永一九年 1642 天下一同に不作(次浦妙見奉社御日記)
29 寛文七年 1667 栗山川が氾濫して一部崖崩れを起し、支流の橋が流れ、人家にも被害があった(南玉造文書)
30 延宝二年八月六日 1674/8/6 本郡地方大風雨(香取郡誌)
31 延宝四年 1676/3 正月より三月に至るの間霖雨(香取郡誌)
32 貞享二年 1685 旱す(香取郡誌)
33 元禄一二年六月十四日 1699/6/14 当村妙道寺焼出す(佐野年中行事) テキストを読む
34 元禄一六年 1703/11 十一月二十二日、二十三日の由夜半頃と云、年代記寅刻関東大地震月を越て止ず、箱根山道筋相州小田原は余国より強、御城崩れ、同時に出火、人大に損、伊豆浦津波あり、安房・上総・銚子迄洪浪入其外海辺浦々洪波に溺れ、人民数千万死と云(千葉市平山静江家過去帳)
35 宝永元年 1704 大に震す月日不詳(香取郡誌)
36 宝永二年三月十九日 1705/3/19 晩四ツ時西谷より出火しめ、談林講堂三門小路所化部屋残ず構の竹木迄焼失し、講堂の箱棟飛行、久保の仏光寺類焼す。然に、板御本尊並総門は焼ず、是は賢師御開眼の由。又、賢師の御住居成られ門の側なる部屋焼残しめ、今に壱軒部屋と号(千葉市平山静江家過去帳) テキストを読む
37 宝永四年十一月二十三日 1707/11/23 富士山焼る。近国は地震焼る響き雷の如く炭成砂降、当国へは焼音は聞ず。七ツ時南方より雷鳴しめ、始は糠の様成物降、其後は黒砂夜中降、富士の焼とは知ず甚驚。廿四日には奉日輪拝又廿五日、廿六日黒砂降暗しめ、日夜の分ち無明を立候由。廿七日は少々宛降廿八日に止、諸人安堵といへり(千葉市平山静江家過去帳)
38 宝永五年十二月三日 1708/12/3 昼多胡の新宿炎焼家数十九軒(南中日本寺文書)
39 享保九年九月六日 1724/9/6 まわり壱丈六尺五寸一本松吹落る、大北風にて落るなり(次浦白幡大神日記)
40 享保一二年九月十二日 1727/9/12 大風雨(香取郡誌)
41 享保一七年冬月 1732/12 日照りにて翌年の正月四日・七七日間雨降ず、谷の湧水少しなり(佐野年中行事)
42 享保一七年 1732 稲虫つき申、本田不作(次浦白幡大神日記)
43 享保一八年 1733/9 六月より九月迄世界大風病にて諸人皆飢申候(次浦白幡大神日記)
44 享保一九年 1734 雷又は雨数度新田場残らず水に付、本田不作(次浦白幡大神日記)
45 元文三年冬月 1738/12 夥敷大洪水にて砂押山崩れ田畑へ押出し、土砂自力にて開発難仕候(桧木小川行雄家文書)
46 元文三年 1738 大門村半兵衛火災、母家一、雪隠一(久賀村消防組沿革)
47 寛保二年八月八日 1742/8/8 大嵐諸国洪水人馬数知れず死(次浦白幡大神日記)
48 寛延二年 1749 当巳の年、百年にも覚へ無之不作にて世上及困窮に候、関八州の悪作に候得共下総・上総・常陸大不作に候、別して当地川間通り皆無に候。六月二十九日、八月十三日大嵐(次浦惣躰大明神奉社日記)
49 宝暦二年 1752 栗山川出水(香取郡誌)
50 宝暦八年 1758/5 五月四日より諸国一同の洪水(次浦惣躰大明神奉社日記)
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