前項では「文化を基軸とするまちづくり」の出発点となった動きとともに、主に文化行政を推進するための組織づくりに焦点をあて、その経緯をたどった。これに続き本項では、そうした組織づくりと並行して実際に文化政策がどのように展開されていったかに焦点をあて、平成14(2002)年に発足した「文化政策懇話会」を起点とし、16(2004)年1月に同懇話会から出された提言に基づき、17(2005)年9月の「文化創造都市宣言」、18(2006)年4月の「文化芸術振興条例」施行、そして21(2009)年1月の文化庁長官表彰受賞にいたる平成10年代半ばから20年代にかけての区独自の文化政策のあゆみをたどっていく。
文化政策懇話会
平成14(2002)年9月、区の文化政策の指針となる提言を得るため、資生堂名誉会長で企業メセナ協議会々長の福原義春氏を座長に迎え、「文化政策懇話会」が発足した(※1)。
この懇話会の設置にあたり、座長就任の依頼を受けた福原氏は当初、この要請を固辞していた。その理由について、16(2004)年1月に提出された同懇話会提言の序文には以下のように記されている。
この懇話会の設置にあたり、座長就任の依頼を受けた福原氏は当初、この要請を固辞していた。その理由について、16(2004)年1月に提出された同懇話会提言の序文には以下のように記されている。
-2002年の夏の始め、突然のように豊島区で文化政策懇話会を始めるので座長を務めるようにとの大変に熱心な依頼を頂いた。
しかし正直に申すと私はこのお申し出にきわめて懐疑的であった。その理由のひとつは、私は文化政策の専門家ではない。ただこれまで財団法人日本ファッション協会の日本生活文化大賞の選考に関わって来たので、各地での文化政策、文化イベント、町おこしなどの一連のうごきには少なからぬ興味を持って接していた程度である。第二に私自身は銀座人であって、豊島区とは残念ながら何の地縁もない。第三にかつて東京都をはじめとして、いくつかの地域の文化について意見を述べたり勉強したりする機会があったが、それらはすべて時間の無駄に終わり、何の成果も実現していない。だから過去の経験に鑑みて、いまさら私が時間を作ってもまた同じことになってしまうのではないかと考えたのだ。
しかし正直に申すと私はこのお申し出にきわめて懐疑的であった。その理由のひとつは、私は文化政策の専門家ではない。ただこれまで財団法人日本ファッション協会の日本生活文化大賞の選考に関わって来たので、各地での文化政策、文化イベント、町おこしなどの一連のうごきには少なからぬ興味を持って接していた程度である。第二に私自身は銀座人であって、豊島区とは残念ながら何の地縁もない。第三にかつて東京都をはじめとして、いくつかの地域の文化について意見を述べたり勉強したりする機会があったが、それらはすべて時間の無駄に終わり、何の成果も実現していない。だから過去の経験に鑑みて、いまさら私が時間を作ってもまた同じことになってしまうのではないかと考えたのだ。
資生堂創業者の孫として生まれ、生粋の銀座人で豊島区には縁もゆかりもなく、またそれまでの経験から自治体への政策提言に懐疑的な思いを抱いていた福原氏が、ただでさえ忙しいなか、豊島区のために時間を割かねばならない理由などひとつもなかった。辞退の理由の第一に「文化政策の専門家」ではないことが挙げられているが、それは福原氏の紳士的な謙遜であり、同氏は企業メセナ協議会の会長職のほか東京都写真美術館館長など数々の要職を歴任し、財界屈指の文化人として知られていた。突然の座長就任要請を受けて、「なんで豊島区が」というのが正直な気持ちであったろうし、第二、第三に挙げられた理由こそが氏の本音だったと思われる。
そんな福原氏の気持ちを動かしたのは、再三にわたり氏のもとに赴き、「提言をいただいたら必ず実現します」と訴える高野区長の熱意だった。「ふるさと豊島を想う会」の粕谷一希氏の時もそうだったが、こうと思ったらすぐ行動に移し、直接会いに行って自らの言葉で思いの丈をストレートに訴える、また一度断れたぐらいでは諦めず、何度でも出向いて説得していく、そうした区長の熱量が相手の気持ちを溶かしていくのである。福原氏も区長の話を聞いているうちに「今回の件は少し様相がちがう」と思うようになり、また同懇話会の専門部会長として、文化経済学の視点から日本の文化政策に貴重な提言を発信し続けている埼玉大学経済学部助教授の後藤和子氏が構想づくりに参加することを知り、「将来あるべき姿のモデルとしてこの懇話会での研究成果のいくつかが実現し、住みやすくたのしい地域づくりのお手伝いができるかも知れない」と思い直し、協力を約束したのだった。
こうして平成14(2002)年9月5日、第1回文化政策懇話会が開催された。同懇話会は座長の福原義春氏に前述の後藤和子氏、想う会の粕谷一希氏が参加したほか、兎束俊之東京音楽大学学長、高木恒一立教大学社会学部助教授、竹内光博(株)UG都市建築次長、アーツコンサルタント中山夏織氏、社会福祉法人「豊芯会」副理事長上野容子氏、区内で音楽スタジオを経営する西島由紀子氏という、学識経験者から文化芸術・都市計画の専門家、区内活動団体代表など多彩な顔ぶれの9名にコミュニティ振興公社常務理事と助役、教育長の3名を加えた12名で構成された。また調査員として東京大学及び横浜国立大学の各大学院生2名が専門部会に参加した。
第1回懇話会の開催にあたり、区長は「区における新たな文化の歴史の始まり、プロローグとなるもの」と期待を寄せ、懇話会から出される提言の実現に最大の努力を払うことを改めて誓った。また福原座長は「たいへん幅広く、奥行きのあるメンバーが揃い、これからの議論が楽しみです。この地域をよくするために結集し、具体的なかたちとして、ひとつのものをつくりあげていきたい」と抱負を述べ、「豊島区にはさまざまな文化的な要素がある。表になかなか出てきていないそうした区の魅力をどう発信していくか、どのような物語を生み出していくかが大切である」と語った。そしてその「物語」の具体的なシナリオを描いていく役割を担う専門部会長の後藤氏も、「豊島区ならではのイメージ、文化資源をどう文化政策につなげていくか、私にとってもチャレンジとなる」と意欲を示した。
そんな福原氏の気持ちを動かしたのは、再三にわたり氏のもとに赴き、「提言をいただいたら必ず実現します」と訴える高野区長の熱意だった。「ふるさと豊島を想う会」の粕谷一希氏の時もそうだったが、こうと思ったらすぐ行動に移し、直接会いに行って自らの言葉で思いの丈をストレートに訴える、また一度断れたぐらいでは諦めず、何度でも出向いて説得していく、そうした区長の熱量が相手の気持ちを溶かしていくのである。福原氏も区長の話を聞いているうちに「今回の件は少し様相がちがう」と思うようになり、また同懇話会の専門部会長として、文化経済学の視点から日本の文化政策に貴重な提言を発信し続けている埼玉大学経済学部助教授の後藤和子氏が構想づくりに参加することを知り、「将来あるべき姿のモデルとしてこの懇話会での研究成果のいくつかが実現し、住みやすくたのしい地域づくりのお手伝いができるかも知れない」と思い直し、協力を約束したのだった。
こうして平成14(2002)年9月5日、第1回文化政策懇話会が開催された。同懇話会は座長の福原義春氏に前述の後藤和子氏、想う会の粕谷一希氏が参加したほか、兎束俊之東京音楽大学学長、高木恒一立教大学社会学部助教授、竹内光博(株)UG都市建築次長、アーツコンサルタント中山夏織氏、社会福祉法人「豊芯会」副理事長上野容子氏、区内で音楽スタジオを経営する西島由紀子氏という、学識経験者から文化芸術・都市計画の専門家、区内活動団体代表など多彩な顔ぶれの9名にコミュニティ振興公社常務理事と助役、教育長の3名を加えた12名で構成された。また調査員として東京大学及び横浜国立大学の各大学院生2名が専門部会に参加した。
第1回懇話会の開催にあたり、区長は「区における新たな文化の歴史の始まり、プロローグとなるもの」と期待を寄せ、懇話会から出される提言の実現に最大の努力を払うことを改めて誓った。また福原座長は「たいへん幅広く、奥行きのあるメンバーが揃い、これからの議論が楽しみです。この地域をよくするために結集し、具体的なかたちとして、ひとつのものをつくりあげていきたい」と抱負を述べ、「豊島区にはさまざまな文化的な要素がある。表になかなか出てきていないそうした区の魅力をどう発信していくか、どのような物語を生み出していくかが大切である」と語った。そしてその「物語」の具体的なシナリオを描いていく役割を担う専門部会長の後藤氏も、「豊島区ならではのイメージ、文化資源をどう文化政策につなげていくか、私にとってもチャレンジとなる」と意欲を示した。
以後、約1年半にわたり懇話会の開催は8回を数えるが、多忙な身にも関わらず、座長の福原氏は1回も欠席することなく懇話会の議論をまとめあげていった。また懇話会とは別に9回開催された専門部会では、毎回のように委員相互の白熱した議論が展開され、さらに部会検討のためのデータ収集や基礎調査には膨大な時間と労力が注ぎ込まれた。通常の審議会では行政側が提出した「たたき台」に沿って意見をまとめていくというのが一般的であるなか、同懇話会ではそうした調査研究の成果と専門部会での議論に基づき、行政とは異なる視点から提言がまとめられていった。この間の経緯については、事務局を務めた当時の文化デザイン課長のレポートにより具体的に描かれているので参照されたい(※2)。
こうして平成16(2004)年1月30日、各委員による議論の集積である「豊島区の文化政策に関する提言~としま文化特区の実現に向けて~」(以下「懇話会提言」)が提出された(※3)。
なお、この提言に先立つ14(2002)年12月9日、文化政策懇話会は「新しい豊島区基本構想における文化政策の位置付けについて(提案)」を区長に提出している。同年9月に基本構想審議会が設置され、新たな基本構想の検討が開始されたこと踏まえて出された提案であった。その内容は、文化政策を個別分野の施策として捉えるだけでなく、都市政策あるいは都市デザイン全体に関わる総合的な政策として基本構想の全体を示す理念の中に位置づけることを求めるものであり、同日開催の第3回懇話会において委員全員の総意により提出されたものであった。これは文化政策を従来からの文化事業、すなわち施設・イベント中心の狭い枠組みにとどめるのではなく、福祉・環境・教育・産業・まちづくりなどの幅広い分野を包括する総合的な都市政策として捉える考え方である。
こうした考え方は区長がめざす「文化を基軸とするまちづくり」と軌を一にするものであり、平成15(2003)年3月に策定された基本構想では4つの基本方針の一つに「伝統・文化と新たな息吹が融合する文化の風薫るまち」が掲げられ、その基本方針のめざすべき方向の中で「芸術領域にとらわれない総合芸術都市」や「文化と共に発展するまち」といった表現で懇話会の提案趣旨は反映された。区の長期ビジョンの柱に「文化政策」が位置づけられたのは初めてのことであり、前項で述べた通り、危機的な財政状況の中で「文化で飯は食えない」と批判されながらも、厳しい時期だからこそ未来を見据えたビジョンを持たなければならない、そして「文化」こそがその未来を切り拓く起爆剤になるという区長の信念の現れと言える。
このように文化政策を総合的な都市政策として捉える視点は、その後まとめられた懇話会提言においても基調をなすものであり、「文化政策が対象とする文化とは、芸術文化の振興や文化財の保護だけではなく、文化産業や都市デザイン、まちづくりなどを含むより広い概念」と改めて定義づけ、具体的な施策を展開する際の拠り所となる文化政策の目的と方法の基本的な考え方として、以下の5項目を挙げている。
こうして平成16(2004)年1月30日、各委員による議論の集積である「豊島区の文化政策に関する提言~としま文化特区の実現に向けて~」(以下「懇話会提言」)が提出された(※3)。
なお、この提言に先立つ14(2002)年12月9日、文化政策懇話会は「新しい豊島区基本構想における文化政策の位置付けについて(提案)」を区長に提出している。同年9月に基本構想審議会が設置され、新たな基本構想の検討が開始されたこと踏まえて出された提案であった。その内容は、文化政策を個別分野の施策として捉えるだけでなく、都市政策あるいは都市デザイン全体に関わる総合的な政策として基本構想の全体を示す理念の中に位置づけることを求めるものであり、同日開催の第3回懇話会において委員全員の総意により提出されたものであった。これは文化政策を従来からの文化事業、すなわち施設・イベント中心の狭い枠組みにとどめるのではなく、福祉・環境・教育・産業・まちづくりなどの幅広い分野を包括する総合的な都市政策として捉える考え方である。
こうした考え方は区長がめざす「文化を基軸とするまちづくり」と軌を一にするものであり、平成15(2003)年3月に策定された基本構想では4つの基本方針の一つに「伝統・文化と新たな息吹が融合する文化の風薫るまち」が掲げられ、その基本方針のめざすべき方向の中で「芸術領域にとらわれない総合芸術都市」や「文化と共に発展するまち」といった表現で懇話会の提案趣旨は反映された。区の長期ビジョンの柱に「文化政策」が位置づけられたのは初めてのことであり、前項で述べた通り、危機的な財政状況の中で「文化で飯は食えない」と批判されながらも、厳しい時期だからこそ未来を見据えたビジョンを持たなければならない、そして「文化」こそがその未来を切り拓く起爆剤になるという区長の信念の現れと言える。
このように文化政策を総合的な都市政策として捉える視点は、その後まとめられた懇話会提言においても基調をなすものであり、「文化政策が対象とする文化とは、芸術文化の振興や文化財の保護だけではなく、文化産業や都市デザイン、まちづくりなどを含むより広い概念」と改めて定義づけ、具体的な施策を展開する際の拠り所となる文化政策の目的と方法の基本的な考え方として、以下の5項目を挙げている。
- (1)あらゆる人々にとって魅力ある生活の場を提供する
- (2)一過性・消費に終わらない質の高い芸術文化創造活動への展開をめざす
- (3)幅広い分野と連携し区政全般を牽引するよう総合性を持たせる
- (4)豊島区の固有性を生かしたまちづくりを進める(文化資源の再発見、編集、創造)
- (5)コンビビアルな(賑わいにあふれた)生活文化の空間を生み出す(面白みのある生活文化の空間づくり)
このように提言が提起する文化政策とは、都市の魅力と活力の源泉であり、人々の日々の生活に深く根ざした文化を、ただその実りを消費するのではなく、再発見し、編集し、新たな文化創造へとつなげていく循環型の活動として捉えるものであった。そしてこうした考え方に基づき、行政、区民、NPO等の活動団体や企業・大学等が連携・協働してめざすべき文化政策の基本方針と施策の方向を以下(抜粋)のように提起している。
◇基本方針
■文化が牽引する都市の再生~ユニバーサルデザインを基調とする文化都市
■文化特区~文化クラスターによる創造的なまちづくりへの挑戦
◇施策の方向
■「としま文化特区構想」実現のための3つの取り組み
■文化が牽引する都市の再生~ユニバーサルデザインを基調とする文化都市
■文化特区~文化クラスターによる創造的なまちづくりへの挑戦
◇施策の方向
■「としま文化特区構想」実現のための3つの取り組み
- 1.芸術文化創造環境づくり(学校施設等を活用した文化芸術創造拠点づくり、舞台芸術プログラムの活発化、文化の担い手・推進者等の人材育成・区政全般を牽引する文化政策を統括する組織の設置・専門家の登用)
- 2.パブリックライフを楽しめる環境づくり(文化活動の場としての広場・公園・通りの活用、公民文化施設機能の活性化と連携)
- 3.豊島区らしい風景づくり(コンビビアルな生活空間の創出、文化資源の再発見・編集・創造、新たな文化産業の創造)
この基本方針及び施策の方向は懇話会提言の中核をなす部分であり、後の区の文化政策や都市政策の中に活かされる様々なアイデアが示されているが、特にここで提起された「としま文化特区構想」と「文化クラスター」という新しい概念はこの提言を最も特徴づけるものと言える。
「文化特区」とは、区全域で様々な創作活動が行われ、享受され、産業と結びついて発展していくよう、区レベルで可能な規制・制度改革を進める豊島区独自の特区である。国の特区制度とは異なる位置づけだが、当時の小泉内閣による規制緩和の動きを踏まえ、必要に応じて「構造改革特区」を国に要望していくとされた。
また後藤専門部会長の命名による「文化クラスター」のクラスターとは、ブドウのような「果物・花などの房」を意味する。区内の様々な文化・芸術活動や文化資源、産業集積等をブドウの粒になぞらえ、人的ネットワークや協働態勢を築きながらこれらの「粒」を有機的に結び、人々の生活と環境、さらに地域経済や産業に革新=イノヴェーションをもたらしていくことを「文化クラスター」と名付けたのである。それは地域に点在する様々な文化資源を再評価し、編集し、新たな創造活動へと結びつけていく活動であり、その活動を生産→流通→消費といった一方向の流れで捉えるのではなく、創造→伝達→享受→評価→蓄積→交流→学習→創造といった一連の循環プロセスとして捉え、分野を越えて有機的な統合を図っていくことであった。
懇話会提言ではこうした文化クラスターの「粒」として、「池袋モンパルナス」「雑司ヶ谷霊園」「マンガ文化」「婦人之友社・自由学園明日館」「児童文学(赤い鳥)」等に着目し、また特徴的な文化集積として「書店・出版関係」「演劇関係」「映画関係」「音楽関係」等、さらに区内の文化インフラとして「文化施設・大学ホール」「美術館・博物館・資料館・図書館」「神社仏閣・記念碑・祭り」「桜の名所」等を抽出し、これらを関連づける「文化クラスター」を例示するとともに、各要素を地図に落とし込んだ資源マップを提示している。こうした分析やマップ化作業は専門部会の調査員や事務局職員の労によるものであったが、それまで漠然と捉えられていた地域の文化資源を視覚化した初の試みであり、この調査研究成果はその後の文化政策に役立てられていくことになったのである。
さらに提言書には本編に続き、各委員の個別の提言が載せられている。その中で、福原座長は提言書に盛り込めなかった課題として、文化政策を実効性のあるものにしていくためのアートマネージメント、プロデューサーなどの文化政策プロフェッショナルの必要性を提起している。
このように懇話会提言は委員間の自由な議論から編み出された様々なアイデアが詰まったものであり、議論を尽くした各委員の区に対する思いは、冒頭に引用した福原座長による序文を締めくくる、以下の文章に集約されていた。
「文化特区」とは、区全域で様々な創作活動が行われ、享受され、産業と結びついて発展していくよう、区レベルで可能な規制・制度改革を進める豊島区独自の特区である。国の特区制度とは異なる位置づけだが、当時の小泉内閣による規制緩和の動きを踏まえ、必要に応じて「構造改革特区」を国に要望していくとされた。
また後藤専門部会長の命名による「文化クラスター」のクラスターとは、ブドウのような「果物・花などの房」を意味する。区内の様々な文化・芸術活動や文化資源、産業集積等をブドウの粒になぞらえ、人的ネットワークや協働態勢を築きながらこれらの「粒」を有機的に結び、人々の生活と環境、さらに地域経済や産業に革新=イノヴェーションをもたらしていくことを「文化クラスター」と名付けたのである。それは地域に点在する様々な文化資源を再評価し、編集し、新たな創造活動へと結びつけていく活動であり、その活動を生産→流通→消費といった一方向の流れで捉えるのではなく、創造→伝達→享受→評価→蓄積→交流→学習→創造といった一連の循環プロセスとして捉え、分野を越えて有機的な統合を図っていくことであった。
懇話会提言ではこうした文化クラスターの「粒」として、「池袋モンパルナス」「雑司ヶ谷霊園」「マンガ文化」「婦人之友社・自由学園明日館」「児童文学(赤い鳥)」等に着目し、また特徴的な文化集積として「書店・出版関係」「演劇関係」「映画関係」「音楽関係」等、さらに区内の文化インフラとして「文化施設・大学ホール」「美術館・博物館・資料館・図書館」「神社仏閣・記念碑・祭り」「桜の名所」等を抽出し、これらを関連づける「文化クラスター」を例示するとともに、各要素を地図に落とし込んだ資源マップを提示している。こうした分析やマップ化作業は専門部会の調査員や事務局職員の労によるものであったが、それまで漠然と捉えられていた地域の文化資源を視覚化した初の試みであり、この調査研究成果はその後の文化政策に役立てられていくことになったのである。
さらに提言書には本編に続き、各委員の個別の提言が載せられている。その中で、福原座長は提言書に盛り込めなかった課題として、文化政策を実効性のあるものにしていくためのアートマネージメント、プロデューサーなどの文化政策プロフェッショナルの必要性を提起している。
このように懇話会提言は委員間の自由な議論から編み出された様々なアイデアが詰まったものであり、議論を尽くした各委員の区に対する思いは、冒頭に引用した福原座長による序文を締めくくる、以下の文章に集約されていた。
-私は文化とは人間がよりよく生きようとする行為の過程とその結果であると思っている。それが活性化したときに、住民はその成果を享受することができるのである。
今回の提言書はある部分はデータベースであり、ある部分は発見であり、あるいは抽象的な方向づけであり、またある部分は具体的な提言を含んでいる。遅くも数年の内にはそのいくつかが実現し、文化政策による地域づくりが目に見えるようになると、その勢いは加速度的になるだろうと願っている。
今回の提言書はある部分はデータベースであり、ある部分は発見であり、あるいは抽象的な方向づけであり、またある部分は具体的な提言を含んでいる。遅くも数年の内にはそのいくつかが実現し、文化政策による地域づくりが目に見えるようになると、その勢いは加速度的になるだろうと願っている。
としま文化フォーラム
文化政策懇話会からの提言を受け、その実現を約した高野区長の責任は大きかった。だが提言を受けたこの平成16(2004)年という年は、財政再建をめざして策定した4か年の「財政健全化計画」の最終年度にあたり、目標であった実質的な黒字転換を達成できないばかりか、次年度以降5年間に約370億円もの財源不足が見込まれるという、区長就任以来、最大の財政危機に直面した年だった。
こうした状況では、新たな文化施策に財源を投入することなど容易にはできない。それでもなお、限られた予算の中で施策の重点化を図り、16(2004)年度予算案を編成するにあたって「ユニバーサルデザインの文化都市の創造」を重点施策の目標に掲げ、懇話会提言の実現に向けた第一歩を踏み出したのである。
こうした状況では、新たな文化施策に財源を投入することなど容易にはできない。それでもなお、限られた予算の中で施策の重点化を図り、16(2004)年度予算案を編成するにあたって「ユニバーサルデザインの文化都市の創造」を重点施策の目標に掲げ、懇話会提言の実現に向けた第一歩を踏み出したのである。
平成16(2004)年2月13日、新年度予算案を提出した区議会第1回定例会の招集あいさつの中で区長は以下のように述べ、文化政策をまちづくりの基本に据えていく決意を改めて表明した(※4)。
-これまで16年度予算編成の厳しさについては縷々申し上げてまいりましたが、私はこのような苦境の中でもめり張りの効いた施策の重点化が必要であると考えております。これからの時代の街づくり、施策づくりは、人々の生き方に深く関わるものでなければならないと考えております。それがユニバーサルデザインの文化都市としまの創造であります。この一月には、資生堂名誉会長であり企業メセナ協議会会長でもあります福原義春氏を座長とする豊島区文化政策懇話会から、「としま文化特区の実現に向けて」をサブタイトルとする提言をいただきました。文化とは人間がよりよく生きようとする行為の過程とその結果であるといわれますが、私は、文化政策を単に狭い意味での芸術文化施策にとどめることなく、総合的な街づくり、施策づくりの基本に据えてこそ、としま未来も切り開かれるのではないかと確信をしております。この考え方は、新基本構想の未来像「未来へ ひびきあう 人 まち・としま」にも表されているように、これからの区政運営の基本理念としていきたいと思います。
そしてこの基本理念のもとに、16(2004)年度の新規事業として「としま文化フォーラム」、「文化芸術創造支援事業」、「東池袋交流施設舞台芸術プロデューサーの設置」等の文化関連10事業を新たに予算化した(※5)。これら3事業は、懇話会提言の中で「芸術文化創造環境づくり」のための施策として示されていた「文化の担い手・推進者等の人材育成」、「閉校施設等を活用した文化芸術創造拠点づくり」、「区政全般を牽引する文化政策を統括する組織の設置・専門家の登用」をそれぞれ具体化するものであった。
図表3ー②は高野区長就任以降、平成12(2000)年度から21(2009)年度までの10年間の文化関連新規・拡充事業及び文化関連施設の建設事業を一覧化した表であり、後ろのグラフは施設建設事業費を除いた文化関連新規・拡充事業の当初予算額の推移を表したものである。なお、この間の組織改正により文化関連事業の所管は一定していないが、18(2006)年度の文化商工部設置以降の文化関連3課(文化デザイン課・文化観光課・学習スポーツ課)及び図書館の所管事業に準ずる事業をすべて抜き出している。また拡充事業の事業費は拡充分(前年度当初予算事業費からの増額部分)のみの額であり、経常的な事業費は含まれていない。
図表3ー②は高野区長就任以降、平成12(2000)年度から21(2009)年度までの10年間の文化関連新規・拡充事業及び文化関連施設の建設事業を一覧化した表であり、後ろのグラフは施設建設事業費を除いた文化関連新規・拡充事業の当初予算額の推移を表したものである。なお、この間の組織改正により文化関連事業の所管は一定していないが、18(2006)年度の文化商工部設置以降の文化関連3課(文化デザイン課・文化観光課・学習スポーツ課)及び図書館の所管事業に準ずる事業をすべて抜き出している。また拡充事業の事業費は拡充分(前年度当初予算事業費からの増額部分)のみの額であり、経常的な事業費は含まれていない。
このグラフからも分かる通り、東池袋交流施設がオープンする平成19(2007)年以前の文化関連新規・拡充事業の当初予算額は、区制施行70周年事業を展開した平成14(2002)年度こそ1億円を超えていたものの、それ以外は毎年度ほぼ6,000万円~8,000万円前後で推移していた。そうした中で平成16(2004)年度の新規・拡充事業予算額は僅か約2,300万円と例年の半分にも満たず、10年間を通して最小規模だった。それだけ区の財政が逼迫していた証とも言えるが、提言を受けた初年度の取り組みとしては些か寂しい感は否めない。
さらに年度別にまとめた個々の事業内容を見ていくと、16(2004)年度以前で予残額が1,000万円を超える事業は、12(2000)年度の「図書館非常勤制度」や15(2003)年度の「図書館業務の一部民間委託」など、行財政改革の一環として職員定数の削減を図るためのものであったり、13(2001)年度の「IT講習会」は国の「情報通信技術(IT)講習推進特例交付金」を活用した補助事業だったりで、全体として事業目的に一貫性は見られない。またこれらの事業以外は数百万円規模の事業がほとんどで、その内容も個別のイベントや団体等への助成に偏っていた。そうした傾向が16(2004)年度以降は文化をまちづくりにつなげていく施策展開へと転換していく様子が見て取れ、また懇話会提言の中で「文化クラスター」として提示されていた「池袋モンパルナス」やトキワ荘を代表とする「マンガ文化」、「演劇関係」などの豊島区固有の文化資源や文化集積を積極的に活用する事業展開が顕著になっている。そして東池袋交流施設が開設した19(2007)年度は、そのオープン記念事業をはじめ、新規・拡充事業予算は一気に5億円を超えた。区財政が好転しつつあった時期とは言え、こうした飛躍的な事業展開は、いみじくも懇話会提言の序文末尾で福原座長が述べていた「遅くも数年の内にはそのいくつかが実現し、文化政策による地域づくりが目に見えるようになると、その勢いは加速度的になるだろう」との希望的予測を現実のものにした。
その一方、福原座長は同提言書の中でこうも語っていた。
さらに年度別にまとめた個々の事業内容を見ていくと、16(2004)年度以前で予残額が1,000万円を超える事業は、12(2000)年度の「図書館非常勤制度」や15(2003)年度の「図書館業務の一部民間委託」など、行財政改革の一環として職員定数の削減を図るためのものであったり、13(2001)年度の「IT講習会」は国の「情報通信技術(IT)講習推進特例交付金」を活用した補助事業だったりで、全体として事業目的に一貫性は見られない。またこれらの事業以外は数百万円規模の事業がほとんどで、その内容も個別のイベントや団体等への助成に偏っていた。そうした傾向が16(2004)年度以降は文化をまちづくりにつなげていく施策展開へと転換していく様子が見て取れ、また懇話会提言の中で「文化クラスター」として提示されていた「池袋モンパルナス」やトキワ荘を代表とする「マンガ文化」、「演劇関係」などの豊島区固有の文化資源や文化集積を積極的に活用する事業展開が顕著になっている。そして東池袋交流施設が開設した19(2007)年度は、そのオープン記念事業をはじめ、新規・拡充事業予算は一気に5億円を超えた。区財政が好転しつつあった時期とは言え、こうした飛躍的な事業展開は、いみじくも懇話会提言の序文末尾で福原座長が述べていた「遅くも数年の内にはそのいくつかが実現し、文化政策による地域づくりが目に見えるようになると、その勢いは加速度的になるだろう」との希望的予測を現実のものにした。
その一方、福原座長は同提言書の中でこうも語っていた。
-私の云いたいことは・・・大きな文化予算を誇るのではなくて、隅々まで実効性のある使われ方に裏付けられた予算であることである。そして文化政策とは必ずしも文化イベントに財政支出を優先的に配分することではなく、すべての政策に文化的な視点を加えることなのである。
この指摘を踏まえるならば、予算の多寡に関わらず、16(2004)年度は豊島区の文化政策の大きな転換点であったと言えるだろう。特に同年度にスタートした「としま文化フォーラム」と「文化芸術創造支援事業」の2事業は1,000万円に満たない予算ではあるものの、その後の区の文化政策の展開につながる役割を果たすことになったのである。
平成16(2004)年4月28日、懇話会提言を具体化する第一弾の事業として、第1期「としま文化フォーラム」が開講した(※6)。このフォーラムは東京芸術劇場のシンフォニースペース(リハーサル室)を会場に、毎回各分野の第一線で活躍する著名な文化人を講師として招き、講演や意見交換を通してともに考え、文化の担い手となる区民の裾野を広げていくことを目的としていた。区と東京芸術劇場、コミュニティ振興公社により「としま文化フォーラム実行委員会」を組織し、塾長は小田島雄志東京芸術劇場館長、副塾長には区長自らが就き、懇話会座長で当時、東京都写真美術館長であった福原義春氏を顧問に迎えてのスタートであった。
この記念すべき第1期第1回の講師は福原義春氏が自ら務め、「文化と経済」をテーマとする講演の中で文化による都市再生の成功例としてフランスのナント市を紹介した。ナント市については提言書の中でも触れられており、偶々、提言書提出の1か月前の15(2003)年12月にフランス外務省の招待を受け、日仏都市会議2003名誉会長として同市を訪れ、その文化政策の展開に感銘を受け、懇話会で論じてきた方向性が間違っていなかったことを再確認したという。
この記念すべき第1期第1回の講師は福原義春氏が自ら務め、「文化と経済」をテーマとする講演の中で文化による都市再生の成功例としてフランスのナント市を紹介した。ナント市については提言書の中でも触れられており、偶々、提言書提出の1か月前の15(2003)年12月にフランス外務省の招待を受け、日仏都市会議2003名誉会長として同市を訪れ、その文化政策の展開に感銘を受け、懇話会で論じてきた方向性が間違っていなかったことを再確認したという。
フランス北西部ロワール河口に位置するナント市は、かつてこのまちの繁栄を支えていた海運・造船業の衰退により都市としての活力を失っていた。それが1989年に20代の若き市長が就任して以降、文化政策を柱に20年先を見据えた都市政策を展開し、2003年にはル・ポアン誌の人口10万人超の市に対するアンケートで「フランスで住みよい町」の1位にランクされるまでの復興を遂げたのである。この第1回の講演に続き、16(2004)年9月3日には福原氏のコーディネートにより、ナント市復興の立役者である同市文化局長ジャン=ルイ・ボナン氏を講師に迎え、特別講演会「文化でよみがえるフランスの地方都市~ナント市」が開催された(※7)。ナント市の取り組みをこうして直に聴く機会が得られたことは、これから文化政策を柱にまちづくりを展開していこうとしていた豊島区にとって大いに勇気づけられるものであった。
以後、「としま文化フォーラム」はおおよそ5回を1期として毎年度1期~3期、多彩な講師を招いて平成27(2015)年度まで実施された(28年度以降は「国際アート・カルチャーフォーラム」に名称を変え、主に国際アート・カルチャー特命大使を対象とする事業に変更)。その12年間の開催実績は23期118回、参加者数は延べ15,000人を超えた。この間に招かれた講師は図表3-③の通り、演劇・映画・音楽・美術・文学など各分野にわたり錚々たる顔ぶれだった。こうした講師たちの話を直に聴けるめったにない機会とあってフォーラムは人気を博し、定員を超える参加者に急遽、追加の席を設けることも少なくなかった。またこの文化フォーラムは運営経費のほとんどを区が負担するという方式をやめ、参加者から相応の参加費を徴し、それを講師たちへの謝礼などに充てる方式をとった点でも、それまでの区の事業の在り方に変化をもたらすものであった。
以後、「としま文化フォーラム」はおおよそ5回を1期として毎年度1期~3期、多彩な講師を招いて平成27(2015)年度まで実施された(28年度以降は「国際アート・カルチャーフォーラム」に名称を変え、主に国際アート・カルチャー特命大使を対象とする事業に変更)。その12年間の開催実績は23期118回、参加者数は延べ15,000人を超えた。この間に招かれた講師は図表3-③の通り、演劇・映画・音楽・美術・文学など各分野にわたり錚々たる顔ぶれだった。こうした講師たちの話を直に聴けるめったにない機会とあってフォーラムは人気を博し、定員を超える参加者に急遽、追加の席を設けることも少なくなかった。またこの文化フォーラムは運営経費のほとんどを区が負担するという方式をやめ、参加者から相応の参加費を徴し、それを講師たちへの謝礼などに充てる方式をとった点でも、それまでの区の事業の在り方に変化をもたらすものであった。
また上記の表には記載していないが、平成25(2013)年度に小田島氏に替わって東京芸術劇場館長となった福地茂雄氏が塾長となるまでの9年間、毎期1回は塾長である小田島氏自らが講師を務めた。駄洒落の名手で知られる氏の軽妙洒脱な講演はいつも笑いに包まれ、フォーラムにサロン的な雰囲気を醸し出した。平成25(2013)年刊の「としまの文化デザイン」には、「創造の精神に触れること」と題して文化フォーラムの取り組みを振り返る小田島氏の一文が寄せられているが、その中で氏は、塾長として心がけていたことは「楽しく、ためになる場」を創出することだったと述べている(※8)。そして「フォーラムの受講生は、講師と直接顔を合わせて、その言葉をじかに聞き、芸術文化を創造する人たちの精神、その神髄に触れます。これを継続的に体験するうちに、参加するみなさんの“文化力”が向上していったのではないかと思います」と語り、10数年に及ぶロングランの取り組みは新しい文化活動が生み出される基礎になったのではないかとフォーラムが果たした役割を振り返っている。
小田島氏が言うように、「としま文化フォーラム」は文化的な土壌づくりに一定の役割は果たしたと考えられるが、著名な講師の話を聴ける「めったにない機会」以上のものではなく、受講者による新たな文化活動が生み出されることもなく、「文化の担い手育成」という当初の目的を十分に果たしたとは言いがたい。だがその一方で、この「文化フォーラム」は二つの副次的効果をもたらした。
そのひとつは、東京芸術劇場が区の文化政策を進めていく上で重要な役割を担うようになったことである。それまでも成人の日の「音楽成人式」や「区民芸術祭」等の開催会場として区は同劇場を利用していたが、これらの単発的な催事は会場借りの域を出ず、また一般の区民にとっても、クラシックコンサートや演劇等が中心の同劇場は地域の身近な文化施設とは言いがたかった。平成2(1990)年の同館開館時には、池袋西口地区のまちづくりを牽引するシンボルとして期待されたものの、バブル崩壊により同地区のまちづくり自体が休眠状態に陥ったこともあって、東京芸術劇場が池袋の地にあるという存在意義は必ずしも活かされてはいなかったのである。だがこのフォーラムの継続的な開催を契機に、館長の小田島氏やその後を継いだ福地氏とのつながりが深まるにつれ、平成18(2006)年にスタートした「新池袋モンパルナス西口まちかど回遊美術館」や20年(2008)からの「フェスティバル/トーキョー」などの実行委員会への参加をはじめ、東京芸術劇場(東京都歴史文化財団)は区の文化政策に組織的に関与するようになっていったのである。
そしてもうひとつの効果は、100人を超える講師たちとのつながりを持てたことである。これら講師の大半は塾長である小田島雄志氏の幅広い人脈により、薄謝にも関わらず快く講師を務めてくれた文化・芸能等各分野で活躍する著名人だったが、講演を通じて知己を得た区長は、その後、会食をともにしたり、講師の出演する舞台公演等に駆けつけたりして交流を深めていった。後日、区長自ら文化フォーラムの目的のひとつは、こうした講師たちとの人脈を築くことだったと語っている。それは区議になりたての頃に当時の内山台東区長のもとで薫陶を受けた際、東京藝術大学に代表される上野と大衆演芸の浅草というふたつの文化発信地を擁する台東区長のまわりには、平山郁夫、黛敏郎、永六輔など日本を代表する文化人が顔を揃えていた。そうした経験から、文化政策を進めていく上で文化人とのネットワークを築くことが重要であることを学んだという。そして区長が期待したとおり、文化フォーラムを通じて得た多くの文化人との交流は、後に区の様々な文化事業への助力を得ることにつながっていったのである。
小田島氏が言うように、「としま文化フォーラム」は文化的な土壌づくりに一定の役割は果たしたと考えられるが、著名な講師の話を聴ける「めったにない機会」以上のものではなく、受講者による新たな文化活動が生み出されることもなく、「文化の担い手育成」という当初の目的を十分に果たしたとは言いがたい。だがその一方で、この「文化フォーラム」は二つの副次的効果をもたらした。
そのひとつは、東京芸術劇場が区の文化政策を進めていく上で重要な役割を担うようになったことである。それまでも成人の日の「音楽成人式」や「区民芸術祭」等の開催会場として区は同劇場を利用していたが、これらの単発的な催事は会場借りの域を出ず、また一般の区民にとっても、クラシックコンサートや演劇等が中心の同劇場は地域の身近な文化施設とは言いがたかった。平成2(1990)年の同館開館時には、池袋西口地区のまちづくりを牽引するシンボルとして期待されたものの、バブル崩壊により同地区のまちづくり自体が休眠状態に陥ったこともあって、東京芸術劇場が池袋の地にあるという存在意義は必ずしも活かされてはいなかったのである。だがこのフォーラムの継続的な開催を契機に、館長の小田島氏やその後を継いだ福地氏とのつながりが深まるにつれ、平成18(2006)年にスタートした「新池袋モンパルナス西口まちかど回遊美術館」や20年(2008)からの「フェスティバル/トーキョー」などの実行委員会への参加をはじめ、東京芸術劇場(東京都歴史文化財団)は区の文化政策に組織的に関与するようになっていったのである。
そしてもうひとつの効果は、100人を超える講師たちとのつながりを持てたことである。これら講師の大半は塾長である小田島雄志氏の幅広い人脈により、薄謝にも関わらず快く講師を務めてくれた文化・芸能等各分野で活躍する著名人だったが、講演を通じて知己を得た区長は、その後、会食をともにしたり、講師の出演する舞台公演等に駆けつけたりして交流を深めていった。後日、区長自ら文化フォーラムの目的のひとつは、こうした講師たちとの人脈を築くことだったと語っている。それは区議になりたての頃に当時の内山台東区長のもとで薫陶を受けた際、東京藝術大学に代表される上野と大衆演芸の浅草というふたつの文化発信地を擁する台東区長のまわりには、平山郁夫、黛敏郎、永六輔など日本を代表する文化人が顔を揃えていた。そうした経験から、文化政策を進めていく上で文化人とのネットワークを築くことが重要であることを学んだという。そして区長が期待したとおり、文化フォーラムを通じて得た多くの文化人との交流は、後に区の様々な文化事業への助力を得ることにつながっていったのである。
文化芸術創造支援事業
こうした「としま文化フォーラム」とは対照的に、新たな文化芸術活動が様々な形で展開される拠点となったのが、平成16(2004)年8月20日、旧朝日中学校(西巣鴨4-9-1)にオープンした「にしすがも創造舎」(Nishi-Sugamo Arts Factory)であった(※9)。
旧朝日中学校は平成13(2001)年3月、朝日中学校と大塚中学校の統合に伴い閉校となり、同年5月から15(2003)年10月までは学校法人淑徳学園に貸付けられていた。その貸付け終了後の活用方法については、15(2003)年10月に策定された「公共施設の再構築・区有財産の活用 本部案」の中で、暫定活用案として「当面、体育館、校庭及び教室で施設開放事業を実施する。また、文化・芸術団体の活動場所の提供も検討する」、「近隣の公共施設の建替えに伴う仮施設として活用する」の2案が挙げられ、暫定活用後の本格活用案として「巣鴨体育館と西巣鴨体育場の機能と区民ひろばの機能を併せ持つ総合体育施設として整備する」方針が示されていた。この暫定活用案の「近隣の公共施設」とは、既存の大塚中学校校舎を活用し、統合新校として開校された巣鴨北中学校の改築が想定されたが、その時点では学校改築のスケジュールは未だ定まっておらず、ましてや本格活用案の新たな体育施設の整備など、危機的な財政状況下ではいつになるかもわからなかった。そうしたなか、素案段階ではなかった「文化・芸術団体の活動場所の提供」について検討することが初めて盛り込まれたのである。
一方、区はNPO等との協働を推進していくため、平成15(2003)年9月に協働事業提案制度を創設した。その初年度の募集に、NPO法人アートネットワーク・ジャパン(以下「ANJ」)とNPO法人芸術家と子どもたち(以下「芸術家と子どもたち」)がそれぞれ「廃校(または区内遊休施設)を活用した稽古場運営」と「豊島区こども文化事業(こどもアーツセンター事業)」を提案した。
当時、都内には演劇やダンス等の稽古場が慢性的に不足しており、自前の稽古場を持たない小さな劇団やグループは公共の貸室施設等を利用していた。だが近隣への騒音が懸念される劇団等への貸出を制約している施設は少なくなく、また大半は時間・日単位での利用であったため、舞台道具等の重い荷物を抱えてあちこちの施設を渡り歩かねばならなかった。こうした状況に問題意識を抱いたのが東京国際芸術祭を主催し、舞台芸術を中心とする芸術文化の活性化と振興、次代を担う才能の発掘等を活動目的に掲げるANJだった。ANJはいち早く廃校施設に着目し、平成13(2001)年には廃校プロジェクトを立ち上げ、都内の廃校施設をリサーチして各自治体に企画書を持ち回ったが、その当時はほぼ門前払いだったという。また当初は特定の活動拠点を持たず、学校等にアーティストを派遣するASIAS(Artist's Studio in A School)活動を展開していた芸術家と子どもたちも、地域の中で子どもたちのための文化活動を展開する活動拠点として、かつて学び舎だった廃校施設に可能性を感じ始めていた。
旧朝日中学校は平成13(2001)年3月、朝日中学校と大塚中学校の統合に伴い閉校となり、同年5月から15(2003)年10月までは学校法人淑徳学園に貸付けられていた。その貸付け終了後の活用方法については、15(2003)年10月に策定された「公共施設の再構築・区有財産の活用 本部案」の中で、暫定活用案として「当面、体育館、校庭及び教室で施設開放事業を実施する。また、文化・芸術団体の活動場所の提供も検討する」、「近隣の公共施設の建替えに伴う仮施設として活用する」の2案が挙げられ、暫定活用後の本格活用案として「巣鴨体育館と西巣鴨体育場の機能と区民ひろばの機能を併せ持つ総合体育施設として整備する」方針が示されていた。この暫定活用案の「近隣の公共施設」とは、既存の大塚中学校校舎を活用し、統合新校として開校された巣鴨北中学校の改築が想定されたが、その時点では学校改築のスケジュールは未だ定まっておらず、ましてや本格活用案の新たな体育施設の整備など、危機的な財政状況下ではいつになるかもわからなかった。そうしたなか、素案段階ではなかった「文化・芸術団体の活動場所の提供」について検討することが初めて盛り込まれたのである。
一方、区はNPO等との協働を推進していくため、平成15(2003)年9月に協働事業提案制度を創設した。その初年度の募集に、NPO法人アートネットワーク・ジャパン(以下「ANJ」)とNPO法人芸術家と子どもたち(以下「芸術家と子どもたち」)がそれぞれ「廃校(または区内遊休施設)を活用した稽古場運営」と「豊島区こども文化事業(こどもアーツセンター事業)」を提案した。
当時、都内には演劇やダンス等の稽古場が慢性的に不足しており、自前の稽古場を持たない小さな劇団やグループは公共の貸室施設等を利用していた。だが近隣への騒音が懸念される劇団等への貸出を制約している施設は少なくなく、また大半は時間・日単位での利用であったため、舞台道具等の重い荷物を抱えてあちこちの施設を渡り歩かねばならなかった。こうした状況に問題意識を抱いたのが東京国際芸術祭を主催し、舞台芸術を中心とする芸術文化の活性化と振興、次代を担う才能の発掘等を活動目的に掲げるANJだった。ANJはいち早く廃校施設に着目し、平成13(2001)年には廃校プロジェクトを立ち上げ、都内の廃校施設をリサーチして各自治体に企画書を持ち回ったが、その当時はほぼ門前払いだったという。また当初は特定の活動拠点を持たず、学校等にアーティストを派遣するASIAS(Artist's Studio in A School)活動を展開していた芸術家と子どもたちも、地域の中で子どもたちのための文化活動を展開する活動拠点として、かつて学び舎だった廃校施設に可能性を感じ始めていた。
この事業提案に先立ち、ANJと芸術家と子どもたちは、同じく学校統合により14(2002)年3月に閉校となった旧千川小学校で稽古場運営や子ども向けのワークショップを試行的に実施していた。そこで展開されていたワークショップは、区がそれまで実施していた子ども向けの文化体験教室等とは大きく異なっていた。予め準備されたプログラムに沿って子どもたちに文化活動を体験する機会を提供するといったものではなく、子どもたち自らが主体的に身体を動かし、アーティストと意見を交わしながら一緒に舞台を創っていくという実験的な取り組みだった。一見すると無秩序にも見えるワークショップだったが、参加している子どもたちの目は輝いていた(※10)。だが旧千川小学校は利用団体が多く、地域住民等を中心に利用者協議会が組織化されており、施設開放事業という枠の中で事業を展開していくことには限界があった。そのため新たな活動拠点をリサーチするなか、区がNPOとの協働事業を募集していることを知り、ANJと芸術家と子どもたちが手を挙げたのである。
そしてこの二つのNPO法人の活動に、以前から関心を寄せていた区職員がいた。15(2003)年4月に新設された文化デザイン課初代課長となる東澤昭である。 20代の頃から演劇活動に携わってきた経験が買われ、文化デザイン課長に抜擢された東澤課長は、前年に設置された文化政策懇話会の提言をまとめあげ、それを具体化していくためのプランを策定することに加え、4年後の19(2007)年度開設予定の東池袋交流施設(舞台芸術交流センター)の開設準備とその後の管理運営を円滑に進めていくことが求められていた。多忙な日々に追われながらも、自らのライフワークを仕事に活かせる機会に恵まれた彼は、かねてから胸に抱いていた考えを実現できないものかと、さまざま模索するようになっていた。それはかつての「池袋モンパルナス」のように、「若い芸術家たちの創作活動、交流の場として廃校校舎を活用する」というアイデアだった。
江戸の近郊農村であった豊島区は、関東大震災後に下町地域から、また戦後は地方から多くの人々を受け入れながら都市として発展してきた。そしてその過程で、若い芸術家たちを育む文化風土が形成されていった。昭和初頭から戦争の影が忍び寄る一時期、長崎地域周辺に建ち並んでいたアトリエ付借家に若き芸術家が寄り集まって暮らしていた「池袋モンパルナス」から、戦後の昭和23(1948)年に開校された「舞台芸術学院」を中心に多くの俳優を輩出した小劇場・小劇団活動、そして昭和20年代後半から30年代にかけて、日本のマンガ文化を切り拓いたマンガ家たちがともに暮らした「トキワ荘」へと、芸術への夢を抱いて地方から出てきた多くの若者がこの街で青春時代を過ごしてきた。平成11(1999)から12(2000)年にかけて「セゾン美術館」(昭和50年開館)と「東武美術館」(平成4年開館)が相次いで閉館し、豊島区で文化は育たないと言われたが、少し時代を遡れば芸術を志す若者を受け容れ、育んできた歴史が連綿と続いていたのである。 文化デザイン課長が思い描いたのは、こうした豊島区のDNAともいうべき文化風土を引き継ぐ場所を、廃校校舎の中に再生できないか、というものだった。
それぞれに立地や規模、活用計画等、さまざまな条件を検討しながら廃校活用の可能性を探っていたNPO法人と文化デザイン課長はまるでそうなることが予め決められていたかのように、旧朝日中学校に引き寄せられていった。もともと旧朝日中学校の地には大正8(1919)年から昭和17(1942)年の間、活動写真・娯楽映画を量産した大都映画巣鴨撮影所があり、豊島区の文化にゆかりの深い場所だった。そうした土地の記憶が文化を通して新たな活動の場を求めていた両者を引き寄せたのかもしれない。学校法人への貸付終了後の用途が定まっていなかった旧朝日中学校ならば、廃校校舎をまるごと活用して両者が思い描く事業を展開できる可能性があった。また宅地の中に立地していた旧千川小学校とは異なり、国道の白山通りに面し、周辺は寺町で体育館の裏手には墓地が広がっていた旧朝日中学校は近隣騒音の懸念も少なく、稽古場として活用するには最適なロケーションと言えた。さらに廃校校舎を新たな文化芸術創造拠点として蘇らせるNPOの提案は、「豊島区固有の文化資源を生かしたまちづくり」を掲げる文化政策懇話会の提言にも合致していた。
こうしていくつもの「幸運な出会い」が重なり、新たな事業への道は開けていった。区はこの提案を採択し、旧朝日中学校校舎をその実施場所に定めた。以後、文化デザイン課が窓口となり、提案事業の具体化に向けた協議をNPOと重ねていく一方、地域住民の理解が得られるよう、地元のまちづくり協議会等と調整を図っていった。
そしてこの二つのNPO法人の活動に、以前から関心を寄せていた区職員がいた。15(2003)年4月に新設された文化デザイン課初代課長となる東澤昭である。 20代の頃から演劇活動に携わってきた経験が買われ、文化デザイン課長に抜擢された東澤課長は、前年に設置された文化政策懇話会の提言をまとめあげ、それを具体化していくためのプランを策定することに加え、4年後の19(2007)年度開設予定の東池袋交流施設(舞台芸術交流センター)の開設準備とその後の管理運営を円滑に進めていくことが求められていた。多忙な日々に追われながらも、自らのライフワークを仕事に活かせる機会に恵まれた彼は、かねてから胸に抱いていた考えを実現できないものかと、さまざま模索するようになっていた。それはかつての「池袋モンパルナス」のように、「若い芸術家たちの創作活動、交流の場として廃校校舎を活用する」というアイデアだった。
江戸の近郊農村であった豊島区は、関東大震災後に下町地域から、また戦後は地方から多くの人々を受け入れながら都市として発展してきた。そしてその過程で、若い芸術家たちを育む文化風土が形成されていった。昭和初頭から戦争の影が忍び寄る一時期、長崎地域周辺に建ち並んでいたアトリエ付借家に若き芸術家が寄り集まって暮らしていた「池袋モンパルナス」から、戦後の昭和23(1948)年に開校された「舞台芸術学院」を中心に多くの俳優を輩出した小劇場・小劇団活動、そして昭和20年代後半から30年代にかけて、日本のマンガ文化を切り拓いたマンガ家たちがともに暮らした「トキワ荘」へと、芸術への夢を抱いて地方から出てきた多くの若者がこの街で青春時代を過ごしてきた。平成11(1999)から12(2000)年にかけて「セゾン美術館」(昭和50年開館)と「東武美術館」(平成4年開館)が相次いで閉館し、豊島区で文化は育たないと言われたが、少し時代を遡れば芸術を志す若者を受け容れ、育んできた歴史が連綿と続いていたのである。 文化デザイン課長が思い描いたのは、こうした豊島区のDNAともいうべき文化風土を引き継ぐ場所を、廃校校舎の中に再生できないか、というものだった。
それぞれに立地や規模、活用計画等、さまざまな条件を検討しながら廃校活用の可能性を探っていたNPO法人と文化デザイン課長はまるでそうなることが予め決められていたかのように、旧朝日中学校に引き寄せられていった。もともと旧朝日中学校の地には大正8(1919)年から昭和17(1942)年の間、活動写真・娯楽映画を量産した大都映画巣鴨撮影所があり、豊島区の文化にゆかりの深い場所だった。そうした土地の記憶が文化を通して新たな活動の場を求めていた両者を引き寄せたのかもしれない。学校法人への貸付終了後の用途が定まっていなかった旧朝日中学校ならば、廃校校舎をまるごと活用して両者が思い描く事業を展開できる可能性があった。また宅地の中に立地していた旧千川小学校とは異なり、国道の白山通りに面し、周辺は寺町で体育館の裏手には墓地が広がっていた旧朝日中学校は近隣騒音の懸念も少なく、稽古場として活用するには最適なロケーションと言えた。さらに廃校校舎を新たな文化芸術創造拠点として蘇らせるNPOの提案は、「豊島区固有の文化資源を生かしたまちづくり」を掲げる文化政策懇話会の提言にも合致していた。
こうしていくつもの「幸運な出会い」が重なり、新たな事業への道は開けていった。区はこの提案を採択し、旧朝日中学校校舎をその実施場所に定めた。以後、文化デザイン課が窓口となり、提案事業の具体化に向けた協議をNPOと重ねていく一方、地域住民の理解が得られるよう、地元のまちづくり協議会等と調整を図っていった。
※10 H150827プレスリリース
そして16(2004)年4月、同年度の新規事業としてNPO法人との協働による「文化芸術創造支援事業」はスタートしたのである(※11)。
この新規事業の目的は、以下の3点であった。
この新規事業の目的は、以下の3点であった。
- (1)文化・芸術団体、劇団、音楽グループ、美術家等に稽古場やアトリエとして施設を開放し、作品制作や発表の場を提供すること等により、文化・芸術創造環境の整備を図る。
- (2)当該施設を拠点として、様々な文化・芸術団体、アーティスト等の相互交流や共同事業、地域との交流事業等を行うなかで、文化・芸術活動の活発化を図り、地域社会の活力向上ならびに文化的な環境づくりに資することを目的とする。
- (3)本事業の実施にあたっては、NPO団体と区がパートナーシップを構築し、協働で取り組むものとする。
また同事業のスキームは、ANJを事業運営主体として文化芸術創造支援事業の実施に係る協定書を交わした上で、旧朝日中学校の校舎と体育館を無償で貸与する使用貸借契約を結び、上記の事業目的を実現するため、協力団体に位置づけられる芸術家と子どもたちとともに、①文化・芸術活動への施設の開放、②文化・芸術活動を通しての地域との交流、③展示会、コンサート、演劇などの上演の3つの事業を実施していくというものであった。この協定書に基づく区と運営主体であるANJとの役割分担は、施設を無償貸与する代わりに、施設運営のための改修経費や光熱費、人件費等の維持管理経費はANJの負担とし、その経費を賄うために施設貸出に伴う利用料や催事等の参加費はANJの収入とするという仕切りで、NPOによる自主管理を基本とした。また区は、地元との調整や事業PR等によりNPOの事業活動に協力していくこととした。
これらの取り決めに基づいて設定された稽古場使用料は、比較的大きな団体の利用や公演会場としての利用が想定される体育館を除き、校舎内の教室(普通教室5室及び音楽室)は1日2,500円 ~4,000円、1か月借りても60,000円~ 100,000円と他の類似施設に比べ低廉に抑えられ、かつその支払いも公演終了後で可とされ、資金繰りに苦労している小規模な団体にとっては願ってもない条件だった。また、事前審査を経て承認された団体は、芝居の大道具等を置いたまま長期に占有することができ(原則として2か月以内)、利用時間も10時から22時までとNPOによる自主管理運営だからこその弾力的な運用が図られた。開館後の平成16(2004)年8~9月に利用団体を募集し、10月から始動した稽古場事業の翌17(2005)年3月までの半年間の利用件数は23件、応募件数はその倍以上の56件にのぼった。翌年度以降も応募件数・利用件数ともに増加していっていることからも、ANJによる稽古場事業は、稽古場不足に悩んでいた小劇団等にとって「救いの手」となったのである。
これらの取り決めに基づいて設定された稽古場使用料は、比較的大きな団体の利用や公演会場としての利用が想定される体育館を除き、校舎内の教室(普通教室5室及び音楽室)は1日2,500円 ~4,000円、1か月借りても60,000円~ 100,000円と他の類似施設に比べ低廉に抑えられ、かつその支払いも公演終了後で可とされ、資金繰りに苦労している小規模な団体にとっては願ってもない条件だった。また、事前審査を経て承認された団体は、芝居の大道具等を置いたまま長期に占有することができ(原則として2か月以内)、利用時間も10時から22時までとNPOによる自主管理運営だからこその弾力的な運用が図られた。開館後の平成16(2004)年8~9月に利用団体を募集し、10月から始動した稽古場事業の翌17(2005)年3月までの半年間の利用件数は23件、応募件数はその倍以上の56件にのぼった。翌年度以降も応募件数・利用件数ともに増加していっていることからも、ANJによる稽古場事業は、稽古場不足に悩んでいた小劇団等にとって「救いの手」となったのである。
一方、区は16(2004)年10月15日、地域再生計画「文化芸術創造都市の形成」を策定し、「補助金で整備された公立学校の廃校校舎等の転用の弾力化」(以下「廃校校舎等の転用の弾力化」)と「映画ロケ、イベント等及びカーレースに伴う道路使用許可の円滑化」の2件の支援措置を国(内閣府地域再生推進室)に申請した(※12)。本来、国庫補助等を受けて建設した学校施設を他の目的に転用する場合は、交付された補助金を国庫に返納しなければならなかったが、この「廃校校舎等の転用の弾力化」の支援措置が認められるとその返納は免除された。また同時に申請したもうひとつの支援措置は、同年度に開始した「ロケーションボック事業」や池袋東口グリーン大通りで社会実験として実施予定の「オープンカフェ」等を想定したものであった(※13)。そして16(2004)年12月8日、これら2件の支援措置を含む区の地域再生計画は内閣総理大臣により認定された(※14)。
地域再生計画(地域再生推進のためのプログラム計画)とは、地域経済の活性化や雇用機会の創出等を実現するため、地方公共団体や民間団体などからの提案を踏まえて国が決定した支援措置に基づき、地方公共団体が地域再生計画を申請し、国が認定する制度である。16(2004)年に創設され、区が申請したのはその第2次募集であったが、規制緩和や権限移譲、財政的な支援等様々な支援メニューがあり、「廃校校舎等の転用の弾力化」もそのメニューのひとつだった。過疎化や少子化に伴い廃校となる学校は年々増加傾向にあり、16(2004)当時、全国で廃校された小中高等学校数は500を超え、廃校施設の活用が課題となっていた。社会教育施設や創業支援施設など、自治体により転用用途は様々だったが、文化芸術創造拠点への転用は都内でも初の試みであり、にしすがも創造舎は廃校活用の新たなモデルケースとして注目された。
この地域再生計画の認定を受けたことは、区にとって補助金の返納が免除されるだけではなく、運営するNPOにとっても大きな意味を持っていた。ANJが廃校プロジェクトを立ち上げた当初、ほとんどの自治体で門前払いの扱いを受けていたことからも分かるように、廃校校舎をまるごと借りることは簡単なことではなかった。ANJと芸術家と子どもたちにとって是が非でも欲しい施設だったが、自分たちだけでは絶対に手に入れることができない「廃校という場所」を得るには、行政との協働という形にすることが不可欠だった。にしすがも創造舎ができたことは、そうした思いを抱いていたNPOと懇話会提言を具体化するための施策展開を模索していた行政が、それこそ「ご縁があって」としか表現できないような絶妙なタイミングで出会った「幸運」によるところが大きかった。それだけにその縁を長くつないで、にしすがも創造舎で継続的に事業を展開していくためには、行政との協働事業であることを庁内はもとより、地域の中でも認知される必要があったのである。
地域再生計画(地域再生推進のためのプログラム計画)とは、地域経済の活性化や雇用機会の創出等を実現するため、地方公共団体や民間団体などからの提案を踏まえて国が決定した支援措置に基づき、地方公共団体が地域再生計画を申請し、国が認定する制度である。16(2004)年に創設され、区が申請したのはその第2次募集であったが、規制緩和や権限移譲、財政的な支援等様々な支援メニューがあり、「廃校校舎等の転用の弾力化」もそのメニューのひとつだった。過疎化や少子化に伴い廃校となる学校は年々増加傾向にあり、16(2004)当時、全国で廃校された小中高等学校数は500を超え、廃校施設の活用が課題となっていた。社会教育施設や創業支援施設など、自治体により転用用途は様々だったが、文化芸術創造拠点への転用は都内でも初の試みであり、にしすがも創造舎は廃校活用の新たなモデルケースとして注目された。
この地域再生計画の認定を受けたことは、区にとって補助金の返納が免除されるだけではなく、運営するNPOにとっても大きな意味を持っていた。ANJが廃校プロジェクトを立ち上げた当初、ほとんどの自治体で門前払いの扱いを受けていたことからも分かるように、廃校校舎をまるごと借りることは簡単なことではなかった。ANJと芸術家と子どもたちにとって是が非でも欲しい施設だったが、自分たちだけでは絶対に手に入れることができない「廃校という場所」を得るには、行政との協働という形にすることが不可欠だった。にしすがも創造舎ができたことは、そうした思いを抱いていたNPOと懇話会提言を具体化するための施策展開を模索していた行政が、それこそ「ご縁があって」としか表現できないような絶妙なタイミングで出会った「幸運」によるところが大きかった。それだけにその縁を長くつないで、にしすがも創造舎で継続的に事業を展開していくためには、行政との協働事業であることを庁内はもとより、地域の中でも認知される必要があったのである。
にしすがも創造舎オープン4年目のインタビューの中で、ANJの蓮池奈緒子代表は「いくら良いことをやっていても、一つ一つオーソライズして議会にも庁内にも理解を得られないと、どこかで辻褄が合わなくなり簡単につぶれてしまう。それだけは絶対に避けたかった」と述べている(※15)。旧千川小学校での試行的な取り組みがぶつかった壁も、そうした「オーソライズ」を得られなかったことだったという。その意味では、内閣府から認定されることは言わば国からお墨付きをもらうことと言え、庁内の「オーソライズ」が得やすくなる。さらに廃校施設を文化芸術創造活動の拠点として活用していくには、庁内での「オーソライズ」以上に地域の理解を得ることが必要だった。
にしすがも創造舎のオープンに先立ち、区とANJとの事業協定締結後、初めて開催した地元説明会での住民たちの反応は、「まずは様子を見てみましょう」という少し冷ややかなものだったという。地域住民にとって学校は自ら通い、子どもたちを通わせた思い出深い場所であり、廃校になったとは言え地域の記憶が詰まったシンボル的な施設である。その学校に余所からNPOが入って来て一体何をするのかと、地域住民にしてみれば期待よりも不安が大きかったことは想像に難くない。
地域住民とのこうした「緊張関係」にあるなか、芸術家と子どもたちはオープン当初から住民参加型事業を展開し、自分たちの持てるノウハウを活かして地域との関係づくりに努めていった。そしてその「緊張関係」を解くひとつのきっかけになったのが、16(2004)年9月にスタートしたプロジェクト「ハヤフサ・ヒデトを探して」と、その成果を発表する場として17(2005)年2月5日に開催された「にしすがも活動写真館」であった(※16)。
このプロジェクトは、旧朝日中学校の地にかつてあった大都映画の看板スター「ハヤフサ・ヒデト」の記憶をたどるワークショップで、当時を知る地域の高齢者へのインタビューをはじめ、児童館でのお話会、小学校でのワークショップ、さらにワーキング・グループ参加者6名に小学生6名を加えた調査団を結成し、ハヤフサ・ヒデトと実際に仕事をしていた関係者への聞き取り調査等を通じ、忘れ去られた戦前のアクションスターを探っていった。そのワークショップの記録を映像化した「検証すがも愛~ハヤフサ・ヒデトを探して」と、唯一現存するハヤフサ・ヒデト監督・主演の無声映画「争闘阿修羅街」を弁士付きで上映したのが1日限りの「にしすがも活動写真館」だった。上映会当日の来場者は約500名にのぼり、当時を懐かしむ多くの声が聞こえた。また記録映画の制作に協力した元朝日中学校PTA会長からは、「廃校になり、思いがけなくもNPOが使ってくれ、地域の文化の中心になった企画が行われ嬉しい」と感謝の言葉が述べられた。どれほどの人が観に来てくれるか不安だったNPOにとっても、「思いがけなくも」嬉しい一日になったのである。
またこのハヤフサ・プロジェクトは、芸術家と子どもたちと民間企業との共同による実験的なアートプロジェクト「ACTION!~子どものいるまちかど~シリーズ」の第1弾として行われたものであったが、この「ACTION!」プロジェクトの趣旨は、アートの視点から子どもたちを中心とする地域への関心の掘り起こしや新旧住民・世代を越えた地域住民同士のつながりを誘発しながら、都市におけるコミュニティの再生、新たな地域価値創造を考えていくというものであった。ハヤフサ・プロジェクトはまさにこの趣旨のままに、忘れ去られつつあった地域の記憶を掘り起こし、世代を超えて共有することにつなげるものだった。それはまた、文化政策懇話会の提言に示された「地域固有の文化資源を再発見し、編集し、新たな文化創造へとつなげていく」という取り組みに他ならなかった。
にしすがも創造舎のオープンに先立ち、区とANJとの事業協定締結後、初めて開催した地元説明会での住民たちの反応は、「まずは様子を見てみましょう」という少し冷ややかなものだったという。地域住民にとって学校は自ら通い、子どもたちを通わせた思い出深い場所であり、廃校になったとは言え地域の記憶が詰まったシンボル的な施設である。その学校に余所からNPOが入って来て一体何をするのかと、地域住民にしてみれば期待よりも不安が大きかったことは想像に難くない。
地域住民とのこうした「緊張関係」にあるなか、芸術家と子どもたちはオープン当初から住民参加型事業を展開し、自分たちの持てるノウハウを活かして地域との関係づくりに努めていった。そしてその「緊張関係」を解くひとつのきっかけになったのが、16(2004)年9月にスタートしたプロジェクト「ハヤフサ・ヒデトを探して」と、その成果を発表する場として17(2005)年2月5日に開催された「にしすがも活動写真館」であった(※16)。
このプロジェクトは、旧朝日中学校の地にかつてあった大都映画の看板スター「ハヤフサ・ヒデト」の記憶をたどるワークショップで、当時を知る地域の高齢者へのインタビューをはじめ、児童館でのお話会、小学校でのワークショップ、さらにワーキング・グループ参加者6名に小学生6名を加えた調査団を結成し、ハヤフサ・ヒデトと実際に仕事をしていた関係者への聞き取り調査等を通じ、忘れ去られた戦前のアクションスターを探っていった。そのワークショップの記録を映像化した「検証すがも愛~ハヤフサ・ヒデトを探して」と、唯一現存するハヤフサ・ヒデト監督・主演の無声映画「争闘阿修羅街」を弁士付きで上映したのが1日限りの「にしすがも活動写真館」だった。上映会当日の来場者は約500名にのぼり、当時を懐かしむ多くの声が聞こえた。また記録映画の制作に協力した元朝日中学校PTA会長からは、「廃校になり、思いがけなくもNPOが使ってくれ、地域の文化の中心になった企画が行われ嬉しい」と感謝の言葉が述べられた。どれほどの人が観に来てくれるか不安だったNPOにとっても、「思いがけなくも」嬉しい一日になったのである。
またこのハヤフサ・プロジェクトは、芸術家と子どもたちと民間企業との共同による実験的なアートプロジェクト「ACTION!~子どものいるまちかど~シリーズ」の第1弾として行われたものであったが、この「ACTION!」プロジェクトの趣旨は、アートの視点から子どもたちを中心とする地域への関心の掘り起こしや新旧住民・世代を越えた地域住民同士のつながりを誘発しながら、都市におけるコミュニティの再生、新たな地域価値創造を考えていくというものであった。ハヤフサ・プロジェクトはまさにこの趣旨のままに、忘れ去られつつあった地域の記憶を掘り起こし、世代を超えて共有することにつなげるものだった。それはまた、文化政策懇話会の提言に示された「地域固有の文化資源を再発見し、編集し、新たな文化創造へとつなげていく」という取り組みに他ならなかった。
※15 こらぼレポ2009(p.4-7)
※16 H170205プレスリリース
区はこうしたにしすがも創造舎の事業展開をより一層支援していくため前年に認定された地域再生計画を改定、「地域再生に資するNPO等の活動支援」と「文化芸術による創造のまち支援事業の活用」の2件の支援措置を追加し、「文化芸術創造都市の形成『としまアートキャンバス』計画」として改めて申請した(※17)。
この「としまアートキャンバス」計画は、豊島区全体をキャンバスに見立て、アートを通じて様々な取り組みを多面的に展開することにより、まちの新たな価値を生み出していくことを目的としていた。新たに申請した2件の支援措置は、NPOと協働して実施する様々なアートプログラムや地域の文化活動を支える文化リーダー・文化ボランティアを育成する事業等に対し、時限的ではあるが国の財政支援が受けられるものであった。
またこの時の申請は、平成17(2005)年4月の地域再生法施行に伴い、5月9日から18日を受付期間とする新たな募集に手を挙げたもので、23区では豊島区のみだったが、全国自治体からの申請件数は454件にのぼった。5月20日の閣議後に行われた記者会見で、当時の村上誠一郎構造改革特区・地域再生担当大臣は豊島区を例に挙げ、「先駆的な活動を行なうNPOを支援する措置にも関心が集まって、アート、芸術を生かしたまちづくりを行なう取り組みなど、ユニークなものが結構出ています」と述べており、国もにしすがも創造舎の取り組みに関心を寄せていることが明かされた。そして7月19日、2件の追加支援措置を含め、「としまアートキャンバス」計画は内閣総理大臣に認定された。
この「としまアートキャンバス」計画は、豊島区全体をキャンバスに見立て、アートを通じて様々な取り組みを多面的に展開することにより、まちの新たな価値を生み出していくことを目的としていた。新たに申請した2件の支援措置は、NPOと協働して実施する様々なアートプログラムや地域の文化活動を支える文化リーダー・文化ボランティアを育成する事業等に対し、時限的ではあるが国の財政支援が受けられるものであった。
またこの時の申請は、平成17(2005)年4月の地域再生法施行に伴い、5月9日から18日を受付期間とする新たな募集に手を挙げたもので、23区では豊島区のみだったが、全国自治体からの申請件数は454件にのぼった。5月20日の閣議後に行われた記者会見で、当時の村上誠一郎構造改革特区・地域再生担当大臣は豊島区を例に挙げ、「先駆的な活動を行なうNPOを支援する措置にも関心が集まって、アート、芸術を生かしたまちづくりを行なう取り組みなど、ユニークなものが結構出ています」と述べており、国もにしすがも創造舎の取り組みに関心を寄せていることが明かされた。そして7月19日、2件の追加支援措置を含め、「としまアートキャンバス」計画は内閣総理大臣に認定された。
この認定を受け、7月29日から8月7日までの10日間にわたり、にしすがも創造舎を会場に「ACTION!子ども夏まつり2005」が開催された(※18)。子どもたちによるダンス公演やアートワークショップなど様々なプログラムが展開されたこの事業は、19(2007)年度からスタートする「にしすがもアート夏まつり」の原型となり、「子どものための文化体験プログラム」のメイン事業のひとつへと発展していった。また、6月11日に開催された「心に響くドラマリーディング」講座は、文化庁の支援制度を活用した17(2005)年度の新規事業「文化芸術による創造のまちづくり」の第1弾となるものであったが、地域再生計画の認定を受け、以後、継続的に実施され、後に区民ひろば等で読み聞かせボランティアとして活躍する人材を生み出していった(※19)。
さらに翌18(2006)年3月31日、地域再生計画の支援措置「日本政策投資銀行の低利融資等」の追加認定を受け、5月から約1か月間、にしすがも創造舎の体育館を本格的な公演を行える劇場にするための改修工事が行われた(※20)。
そのきっかけは日本を代表する演出家・蜷川幸雄氏が、公演作品の稽古場として体育館を利用した際、「ここでぜひ公演をやりたい」と言ったことだったという。ANJとしても稽古場事業で終わるのではなく、そこで創り上げられた作品を上演にまでつなげて行きたいという思いがあった。創作活動のプロセスとその発表を同じ場所で出来ることはアーティストたちにとっても理想的な環境であったし、何より自分たちがこの廃校校舎で何をしようとしているのかを地域の人々に理解してもらい、にしすがも創造舎が地域に根付いた施設として認知されることになると思われたのだ。
こうして体育館の劇場化構想は動き出した。だが、その実現には高いハードルが想定された。第一に、改修に係る経費をいかに工面するかという問題である。それまでもANJが主催する「東京国際芸術祭」の公演会場のひとつとして体育館を使用していたが、消防法・興行場法で認められた正式な劇場ではなかったため、月4日までの開催か、その都度届出をする臨時興行場の扱いだった。通年利用できる劇場にするためには、客席設備だけではなく、法の基準に適合する防火設備や避難通路の確保、さらに雨天時に雨音が響いていた屋根に防音補強等を施す必要があり、これらに係る経費は数千万円にのぼることが見込まれた。NPOにそれほどの資金力はなく、区も暫定利用の施設に財源を充てる余裕はなかった。そうしたなか、にしすがも創造舎の活動に関心を寄せていた内閣府地域再生室の企画官が日本政策投資銀行につないでくれ、また同行の融資担当者も積極的に動いて話を進めてくれ、さらに地元の巣鴨信用金庫の協力も得られ、最終的に日本政策投資銀行と巣鴨信用金庫がそれぞれ1500万円ずつ、計3,000万円をANJに融資する話がまとまった。
このように書くとトントン拍子で話がまとまったように思われるが、実際に融資話を進めていく過程ではいくつもの壁にぶつかった。その壁のひとつに、廃校校舎の使用貸借契約の問題があった。それまで区とANJは同契約の期間を1年間とし、区の施設活用の検討状況を見ながら毎年度更新する方法を取っていた。これは旧朝日中学校を文化芸術創造拠点としてNPOに無償貸与するのはあくまで暫定活用であり、他の目的への転用もあり得ることを前提としていたからである。だが1年契約では返済計画が立たないため、日本政策投資銀行からは契約期間を延長できないかと言われたのである。前述したように、旧朝日中学校については統合新校の巣鴨北中学校校舎を改築する際に仮校舎として使用することが想定されていたが、実際に学校改築計画についての検討が開始されるのは翌19(2007)年度からで、この時点ではまだ具体的な話は進んでいなかった。さしあたって数年のうちに巣鴨北中学校の改築が具体化されることはないと思われたが、それでも旧朝日中学校だけを特別な取り扱いとすることには区の政策判断が求められた。これに対し、区は1年間の契約を5年間にすることを決定し、さらに2,000万円を限度として損失補償することとし、18(2006)年度予算に債務負担行為として計上したのである。こうした区の対応を受け、区がそこまでしてくれるならばと、日本政策投資銀行もANJへの融資を決定したが、これは同行にとって初めてのNPO法人へ融資であり、また地域再生計画に基づく事業への融資としても都内初となるものであった。
平成18(2006)年4月19日に配信されたANJへの融資決定を公表する同行ニュースリリースには、この融資の趣旨について以下のように記されている。
さらに翌18(2006)年3月31日、地域再生計画の支援措置「日本政策投資銀行の低利融資等」の追加認定を受け、5月から約1か月間、にしすがも創造舎の体育館を本格的な公演を行える劇場にするための改修工事が行われた(※20)。
そのきっかけは日本を代表する演出家・蜷川幸雄氏が、公演作品の稽古場として体育館を利用した際、「ここでぜひ公演をやりたい」と言ったことだったという。ANJとしても稽古場事業で終わるのではなく、そこで創り上げられた作品を上演にまでつなげて行きたいという思いがあった。創作活動のプロセスとその発表を同じ場所で出来ることはアーティストたちにとっても理想的な環境であったし、何より自分たちがこの廃校校舎で何をしようとしているのかを地域の人々に理解してもらい、にしすがも創造舎が地域に根付いた施設として認知されることになると思われたのだ。
こうして体育館の劇場化構想は動き出した。だが、その実現には高いハードルが想定された。第一に、改修に係る経費をいかに工面するかという問題である。それまでもANJが主催する「東京国際芸術祭」の公演会場のひとつとして体育館を使用していたが、消防法・興行場法で認められた正式な劇場ではなかったため、月4日までの開催か、その都度届出をする臨時興行場の扱いだった。通年利用できる劇場にするためには、客席設備だけではなく、法の基準に適合する防火設備や避難通路の確保、さらに雨天時に雨音が響いていた屋根に防音補強等を施す必要があり、これらに係る経費は数千万円にのぼることが見込まれた。NPOにそれほどの資金力はなく、区も暫定利用の施設に財源を充てる余裕はなかった。そうしたなか、にしすがも創造舎の活動に関心を寄せていた内閣府地域再生室の企画官が日本政策投資銀行につないでくれ、また同行の融資担当者も積極的に動いて話を進めてくれ、さらに地元の巣鴨信用金庫の協力も得られ、最終的に日本政策投資銀行と巣鴨信用金庫がそれぞれ1500万円ずつ、計3,000万円をANJに融資する話がまとまった。
このように書くとトントン拍子で話がまとまったように思われるが、実際に融資話を進めていく過程ではいくつもの壁にぶつかった。その壁のひとつに、廃校校舎の使用貸借契約の問題があった。それまで区とANJは同契約の期間を1年間とし、区の施設活用の検討状況を見ながら毎年度更新する方法を取っていた。これは旧朝日中学校を文化芸術創造拠点としてNPOに無償貸与するのはあくまで暫定活用であり、他の目的への転用もあり得ることを前提としていたからである。だが1年契約では返済計画が立たないため、日本政策投資銀行からは契約期間を延長できないかと言われたのである。前述したように、旧朝日中学校については統合新校の巣鴨北中学校校舎を改築する際に仮校舎として使用することが想定されていたが、実際に学校改築計画についての検討が開始されるのは翌19(2007)年度からで、この時点ではまだ具体的な話は進んでいなかった。さしあたって数年のうちに巣鴨北中学校の改築が具体化されることはないと思われたが、それでも旧朝日中学校だけを特別な取り扱いとすることには区の政策判断が求められた。これに対し、区は1年間の契約を5年間にすることを決定し、さらに2,000万円を限度として損失補償することとし、18(2006)年度予算に債務負担行為として計上したのである。こうした区の対応を受け、区がそこまでしてくれるならばと、日本政策投資銀行もANJへの融資を決定したが、これは同行にとって初めてのNPO法人へ融資であり、また地域再生計画に基づく事業への融資としても都内初となるものであった。
平成18(2006)年4月19日に配信されたANJへの融資決定を公表する同行ニュースリリースには、この融資の趣旨について以下のように記されている。
-本件は、文化芸術の創造・交流拠点である「にしすがも創造舎」について、稽古場としてのみならず、集客力・安全性等の観点から劇場としての用途にも一層適した施設とすべく、旧体育館の工事を行うことで、文化芸術の発信機能を持たせるものです。本件は、豊島区の地域再生計画に合致する事業であり、同区も新たな金融支援策の創設等、様々な支援策を講じています。また、日本政策投資銀行にとって、東京都内初の地域再生計画に基づく事業に対する融資であり、当行初のNPO法人に対する融資でもあります。
こうして多くの人々の熱意や協力が結集し、体育館は劇場へと生まれ変わった。以後、この特設劇場を舞台に、新進気鋭のアーティストたちによる「演劇上演プロジェクト」から地域の子どもたちに本物の演劇作品を提供する「子どもに見せたい舞台」まで、多様な公演事業が展開されていった。
そして平成19(2007)年3月10日、この特設劇場を「東京国際芸術祭2007」のメイン会場として、欧米や中東の著名な劇団や演出家等による公演作品が上演された(※21)。廃校校舎の体育館が国際的な演劇公演の舞台となることなど、ほんの1年前には誰が想像しえただろう。まさに奇跡のような出来事だった。
前掲の「としまの文化デザイン」には、ニッセイ基礎研究所芸術文化プロジェクト室長で国や自治体の文化政策や様々なアートプロジェクトに関わっていた吉本光宏氏による「廃校に花束を-豊島区に息づく創造都市のDNA」という一文が寄せられている(※22)。その中で同氏は、東京国際芸術祭のメインプログラムのひとつとしてクウェートのスレイマン・アルバッサーム・シアターによる「カリラ・ワ・ディムナー王子たちの鏡」がこの特設会場で世界初演されたこと、また寄稿文タイトルの「花束」とはロンドンのバーカンビーセンターから贈られたこの国際共同制作のオープニングへのお祝いであったことに触れ、その小さな花束こそ「アートNPOと協働して、新しい芸術を創造、発信していこうという豊島区の文化政策の理念と戦略を象徴しているのである。それはまた、文化施設というハードにばかり投資してきた全国の文化行政に対する痛烈な批評であり、理想を追い求めるアートNPOならではの誇りの証でもある」と、国際的演劇プログラム初演の快挙を称えている。
こうして、にしすがも創造舎は廃校校舎活用のモデルケースであると同時に、行政とNPOとの協働事業の先駆的な取り組み事例として様々なメディアで取り上げられ、各方面から高い評価を得ていった。そしてその評価が、さらに新たな創造活動を生み出していく原動力になっていった。それはまさに、懇話会提言が提起した「創造→伝達→享受→評価→蓄積→交流→学習→創造」という循環型の取り組みに他ならなかった。
区とANJ、芸術家と子どもたちとの協働事業がスタートした当時、全国でも行政とNPOとの協働は広がりつつあったが、必ずしもうまくいっているものばかりではなかった。むしろ、にしすがも創造舎は全国でも希有な成功事例と言えた。どうして豊島区では成功できたのか…その要因は様々考えられるが、最大の要因は相互のフラットなコミュニケーションとその積み重ねによって築かれた信頼関係であったと思われる。
非営利団体であるNPOは、自分たちの企画を事業化しようと思っても資金調達面での課題が常について回る。一方、財政状況が厳しい中では直接的な財政支援を行うことは難しく、それに代わり区は国等の支援制度を最大限に活用し、にしすがも創造舎の事業展開を後押ししていった。だがそうした助成金はいずれも時限的なものであったため、支援措置期間の終了後も事業を継続していくためには、区とNPOとがそれぞれ事業経費を負担し合う協働事業という枠組みにしていく必要があった。前述した文化ボランティアの育成事業(文化芸術による創造のまちづくり)や「にしすがもアート夏まつり」(子どものための文化体験プログラム)の両事業も、当初は文化創造支援事業の一環として各NPOの主催でスタートし、後に区と両NPOとの、さらに教育委員会やとしま未来文化財団を加えた「としま文化創造プロジェクト実行委員会」による主催という枠組みが作られていった。
またANJが主催していた「東京国際芸術祭」も時限的な助成金による事業運営に困難を抱えていたが、東京オリンピック・パラリンピック招致活動の一環として立ち上げられた都の「東京文化発信プロジェクト」事業のひとつとして、国際的な演劇フェスティバルの開催がANJに持ち掛けられ、21(2009)年以降は「フェスティバル/トーキョー(F/T)」と名称を変え、区とANJと未来文化財団の3者で構成するF/T実行委員会と東京都及び東京芸術劇場(公益財団法人東京都歴史文化財団)の主催事業として実施されるようになった。そして区はこれら実行委員会の一員として、事業費の一部を分担金という形で予算化していったのである。
こうした協働の形を模索していく過程で、文化デザイン課とANJ、芸術家と子どもたちは一つひとつの事業についてそのあり方や実施方法、また事業実施後は反省点・課題も含めて常に話し合いを重ね、さらに実際に事業を実施する際には区職員もスタッフとして共に汗を流した。
2011年3月31日に刊行された記録誌「にしすがも創造舎2004~2011」には、開設に深く関わったANJ代表の蓮池奈緒子氏、芸術家と子どもたち代表の堤康彦氏、そして開設時の文化デザイン課長であった東澤昭氏の3者による鼎談が載せられているが、その中で両NPO代表は区との協働が成功した要因について以下のように語っている。
そして平成19(2007)年3月10日、この特設劇場を「東京国際芸術祭2007」のメイン会場として、欧米や中東の著名な劇団や演出家等による公演作品が上演された(※21)。廃校校舎の体育館が国際的な演劇公演の舞台となることなど、ほんの1年前には誰が想像しえただろう。まさに奇跡のような出来事だった。
前掲の「としまの文化デザイン」には、ニッセイ基礎研究所芸術文化プロジェクト室長で国や自治体の文化政策や様々なアートプロジェクトに関わっていた吉本光宏氏による「廃校に花束を-豊島区に息づく創造都市のDNA」という一文が寄せられている(※22)。その中で同氏は、東京国際芸術祭のメインプログラムのひとつとしてクウェートのスレイマン・アルバッサーム・シアターによる「カリラ・ワ・ディムナー王子たちの鏡」がこの特設会場で世界初演されたこと、また寄稿文タイトルの「花束」とはロンドンのバーカンビーセンターから贈られたこの国際共同制作のオープニングへのお祝いであったことに触れ、その小さな花束こそ「アートNPOと協働して、新しい芸術を創造、発信していこうという豊島区の文化政策の理念と戦略を象徴しているのである。それはまた、文化施設というハードにばかり投資してきた全国の文化行政に対する痛烈な批評であり、理想を追い求めるアートNPOならではの誇りの証でもある」と、国際的演劇プログラム初演の快挙を称えている。
こうして、にしすがも創造舎は廃校校舎活用のモデルケースであると同時に、行政とNPOとの協働事業の先駆的な取り組み事例として様々なメディアで取り上げられ、各方面から高い評価を得ていった。そしてその評価が、さらに新たな創造活動を生み出していく原動力になっていった。それはまさに、懇話会提言が提起した「創造→伝達→享受→評価→蓄積→交流→学習→創造」という循環型の取り組みに他ならなかった。
区とANJ、芸術家と子どもたちとの協働事業がスタートした当時、全国でも行政とNPOとの協働は広がりつつあったが、必ずしもうまくいっているものばかりではなかった。むしろ、にしすがも創造舎は全国でも希有な成功事例と言えた。どうして豊島区では成功できたのか…その要因は様々考えられるが、最大の要因は相互のフラットなコミュニケーションとその積み重ねによって築かれた信頼関係であったと思われる。
非営利団体であるNPOは、自分たちの企画を事業化しようと思っても資金調達面での課題が常について回る。一方、財政状況が厳しい中では直接的な財政支援を行うことは難しく、それに代わり区は国等の支援制度を最大限に活用し、にしすがも創造舎の事業展開を後押ししていった。だがそうした助成金はいずれも時限的なものであったため、支援措置期間の終了後も事業を継続していくためには、区とNPOとがそれぞれ事業経費を負担し合う協働事業という枠組みにしていく必要があった。前述した文化ボランティアの育成事業(文化芸術による創造のまちづくり)や「にしすがもアート夏まつり」(子どものための文化体験プログラム)の両事業も、当初は文化創造支援事業の一環として各NPOの主催でスタートし、後に区と両NPOとの、さらに教育委員会やとしま未来文化財団を加えた「としま文化創造プロジェクト実行委員会」による主催という枠組みが作られていった。
またANJが主催していた「東京国際芸術祭」も時限的な助成金による事業運営に困難を抱えていたが、東京オリンピック・パラリンピック招致活動の一環として立ち上げられた都の「東京文化発信プロジェクト」事業のひとつとして、国際的な演劇フェスティバルの開催がANJに持ち掛けられ、21(2009)年以降は「フェスティバル/トーキョー(F/T)」と名称を変え、区とANJと未来文化財団の3者で構成するF/T実行委員会と東京都及び東京芸術劇場(公益財団法人東京都歴史文化財団)の主催事業として実施されるようになった。そして区はこれら実行委員会の一員として、事業費の一部を分担金という形で予算化していったのである。
こうした協働の形を模索していく過程で、文化デザイン課とANJ、芸術家と子どもたちは一つひとつの事業についてそのあり方や実施方法、また事業実施後は反省点・課題も含めて常に話し合いを重ね、さらに実際に事業を実施する際には区職員もスタッフとして共に汗を流した。
2011年3月31日に刊行された記録誌「にしすがも創造舎2004~2011」には、開設に深く関わったANJ代表の蓮池奈緒子氏、芸術家と子どもたち代表の堤康彦氏、そして開設時の文化デザイン課長であった東澤昭氏の3者による鼎談が載せられているが、その中で両NPO代表は区との協働が成功した要因について以下のように語っている。
-協働パートナー同士でうまくいかない例も多く聞くので、良いバランスを驚かれることは多いです。フェスティバル/トーキョー(F/T)での、海外の先鋭的なカンパニーの招聘公演などと、子どもとアートを結ぶような地域向けのプロジェクトが切り離されたものではなく、一緒の場所で共存できるというのを提示できていると思います。
区の場合は政策的視点から文化政策を組み立てる。NPO側はそれに沿って運営する意識は特にありませんが、結果的に区が掲げる政策にプロジェクトが分類化されていきます。それがお互いの成果として、外部評価になっていきました。(蓮池氏)
-豊島区に文化デザイン課というセクションがあり、その職員の方がにしすがも創造舎を常に気に懸けてくれているということが心強かったです。NPOにとって、一緒に汗を流してくれる人が行政側にいるということは大きいことです。場所を貸すから勝手にやりなさいということではないのです。区と協働してやっているという意識があってこそ、我々は次に企画を考えられるわけです。(堤氏)
区の場合は政策的視点から文化政策を組み立てる。NPO側はそれに沿って運営する意識は特にありませんが、結果的に区が掲げる政策にプロジェクトが分類化されていきます。それがお互いの成果として、外部評価になっていきました。(蓮池氏)
-豊島区に文化デザイン課というセクションがあり、その職員の方がにしすがも創造舎を常に気に懸けてくれているということが心強かったです。NPOにとって、一緒に汗を流してくれる人が行政側にいるということは大きいことです。場所を貸すから勝手にやりなさいということではないのです。区と協働してやっているという意識があってこそ、我々は次に企画を考えられるわけです。(堤氏)
にしすがも創造舎でどのようなアートプラグラムが展開されたかは次項で述べるが、蓮池氏が言うように、フェスティバル/トーキョーのような先鋭的なプログラムと地域の子どもたちのためのアートプログラムがひとつの場所でバランス良く展開されたことがにしすがも創造舎の成功要因であったことは間違いないだろう。どちらか一方だったり、どちらかに偏っていたりしていたならば、それほどまでに高い評価や幅広い支持は得られなかったに違いない。当然のことながら、NPOとしてやりたいことと行政が求めることは必ずしも一致しない。両者の意見が食い違うことも多々あったに違いない。それでもなお、堤氏が言うように、多くの話し合いの積み重ねや共に汗を流すというプロセスを経たからこそ、両者の間には言わば同志とも言える連帯感、信頼関係が築かれていったのである。
にしすがも創造舎という施設名称も、NPOと文化デザイン課で話し合って決めたものだという。この名称にはかつて「学び舎」であった廃校校舎を、文化芸術の「創造」拠点にしていこうとの願いが込められている。そしてその願いの通りに、数多くのアーティストが廃校校舎という場に触発され、新たな創造活動の可能性を見出していき、それ以上に多くの子どもたちが様々なアートプログラムを体験し、創ることの喜びを発見していった。またANJと芸術家と子どもたちは、この廃校校舎の英語名である「Arts Factory(アートファクトリー)」であることに一貫してこだわった。彼らがめざしたのは単なる創作の場としての「スタジオ」ではなく、また発表の場としての「シアター」でもなく、アーティストたちの試行錯誤の創作活動を支え、子どもたちをはじめ地域の人々との交流を通じ、新たな発見、感動を生み出していく「ファクトリー」であった。それはまた、開設当時の文化デザイン課長が抱いていた「池袋モンパルナス」のような、若い芸術家たちを育む豊島区の「DNA」とも言える文化風土を引き継ぐ場所であったと言えるだろう。
にしすがも創造舎という施設名称も、NPOと文化デザイン課で話し合って決めたものだという。この名称にはかつて「学び舎」であった廃校校舎を、文化芸術の「創造」拠点にしていこうとの願いが込められている。そしてその願いの通りに、数多くのアーティストが廃校校舎という場に触発され、新たな創造活動の可能性を見出していき、それ以上に多くの子どもたちが様々なアートプログラムを体験し、創ることの喜びを発見していった。またANJと芸術家と子どもたちは、この廃校校舎の英語名である「Arts Factory(アートファクトリー)」であることに一貫してこだわった。彼らがめざしたのは単なる創作の場としての「スタジオ」ではなく、また発表の場としての「シアター」でもなく、アーティストたちの試行錯誤の創作活動を支え、子どもたちをはじめ地域の人々との交流を通じ、新たな発見、感動を生み出していく「ファクトリー」であった。それはまた、開設当時の文化デザイン課長が抱いていた「池袋モンパルナス」のような、若い芸術家たちを育む豊島区の「DNA」とも言える文化風土を引き継ぐ場所であったと言えるだろう。
文化創造都市宣言から文化庁長官表彰へ
平成17(2005)年9月22日、区は文化創造都市としてめざすべき方向を明確にするため、区議会の議決に基づき、「文化創造都市宣言」を行った(※23)。
この「文化創造都市宣言」は、「非核都市宣言」(昭和57年7月2日)、「交通安全都市宣言」(平成11年10月13日)、「男女共同参画都市宣言」(平成14年2月15日)に続く、区として4番目の都市宣言になる。
都市宣言制定の趣旨は、「文化による地域の活性化と、新たな魅力と価値を生むまちづくりに向け、多様な主体との協働により、誇りと活力に満ちた文化の風薫るまち、豊島区を築いていくことを広く区内外にアピールする」ことであった。「文化フォーラム」や「文化芸術創造支援事業」をはじめ、区民やNPO等との協働により新たな文化創造活動が展開され始めた機を捉え、「文化創造都市」を広く宣言することにより、「文化を基軸とするまちづくり」をさらに進めていく気運を盛り上げていこうとしたのである。
以下に宣言全文を引用する。
この「文化創造都市宣言」は、「非核都市宣言」(昭和57年7月2日)、「交通安全都市宣言」(平成11年10月13日)、「男女共同参画都市宣言」(平成14年2月15日)に続く、区として4番目の都市宣言になる。
都市宣言制定の趣旨は、「文化による地域の活性化と、新たな魅力と価値を生むまちづくりに向け、多様な主体との協働により、誇りと活力に満ちた文化の風薫るまち、豊島区を築いていくことを広く区内外にアピールする」ことであった。「文化フォーラム」や「文化芸術創造支援事業」をはじめ、区民やNPO等との協働により新たな文化創造活動が展開され始めた機を捉え、「文化創造都市」を広く宣言することにより、「文化を基軸とするまちづくり」をさらに進めていく気運を盛り上げていこうとしたのである。
以下に宣言全文を引用する。
文化創造都市宣言
わたしたちのまち、豊島区は、多様な人々が夢を描き、営みを重ねながら、彩り豊かな文化と芸術をはぐくんできました。
歴史と伝統を受け継ぎ、これを糧として、次の世代に伝える新たな文化を創造し、世界へ発信することは、わたしたちの望みであり、使命です。
わたしたちが享受し、創造する文化は、癒しと勇気を与え、生きる力をもたらし、まちに新たな魅力と輝きを生み出します。
わたしたちは、文化を通じて相互に理解し、共感し、尊重し合う心を育て、人と人とのつながりを何よりも大切にしながら、あらゆる人々と協働し、いきいきとした地域社会づくりを進めます。
未来に向けて、わたしたち一人ひとりが担い手となり、誇りと活力に満ちた文化の風薫るまち、豊島区を築いていくことを決意し、「文化創造都市」を宣言します。
わたしたちのまち、豊島区は、多様な人々が夢を描き、営みを重ねながら、彩り豊かな文化と芸術をはぐくんできました。
歴史と伝統を受け継ぎ、これを糧として、次の世代に伝える新たな文化を創造し、世界へ発信することは、わたしたちの望みであり、使命です。
わたしたちが享受し、創造する文化は、癒しと勇気を与え、生きる力をもたらし、まちに新たな魅力と輝きを生み出します。
わたしたちは、文化を通じて相互に理解し、共感し、尊重し合う心を育て、人と人とのつながりを何よりも大切にしながら、あらゆる人々と協働し、いきいきとした地域社会づくりを進めます。
未来に向けて、わたしたち一人ひとりが担い手となり、誇りと活力に満ちた文化の風薫るまち、豊島区を築いていくことを決意し、「文化創造都市」を宣言します。
まず都市宣言の名称が「文化都市」ではなく「文化創造都市」であることに、この宣言の趣旨が端的に表されている。今ある文化を享受するのではなく、過去から受け継いだ文化を糧に新たな文化を「創造」し、次代に伝えていくというプロセスに力点を置く視点である。またその「創造」は単に文化芸術の振興にとどまらず、「あらゆる人々と協働し、いきいきとした地域社会づくりを進める」ことであるとしている。こうした視点は、平成15(2003)年3月に制定された基本構想と翌16(2004)年1月に提出された文化政策懇話会の提言を踏まえたものであることは言うまでもない。
区はこの宣言文を策定するにあたり、広報紙等を通じて「文化」をテーマに区民意見を募集したほか、「文化フォーラム」の参加者へのアンケート調査やインターネット区民アンケート調査を実施し、これら区民意見を踏まえて宣言文の素案を作成した。そしてこの素案に対するパブリックコメントを実施し、若干の文言修正を加えた上で平成17(2005)年区議会第3回定例会に議案として提出した。そして9月22日開会初日の本会議において、都市宣言の趣旨や内容等についての区側説明後、同議案は即時採決に付され、全会一致で可決された。
これまでも述べてきたように、危機的な区財政を再建するための行財政改革を断行する一方で文化政策を柱に据える高野区長の施政方針に対し、「文化で飯は食えない」と批判する声は、議会はもとより、区民の中にも少なくなかった。だがこの都市宣言に対するパブリックコメント等に寄せられた区民意見の大半は、宣言文の文言や表現に関するもので、宣言そのものに反対する意見は見られなかった。これは区制施行70周年記念事業をはじめ、この間に進められてきた「文化フォーラム」や「文化芸術創造支援事業」等の新たな文化事業の展開を目のあたりにし、区のめざす文化政策の方向性が区民の中にも理解され始めた証と言える。区長がそれこそ念仏のごとく唱え続けてきた、「文化は人を元気にし、元気な人が街の活力を生み出す」という考え方が区民の間にも浸透してきたのである。こうした風向きの変化は区議会も同様であったが、この都市宣言が全会一致で可決されたことの意義は大きかった。
区はこの宣言文を策定するにあたり、広報紙等を通じて「文化」をテーマに区民意見を募集したほか、「文化フォーラム」の参加者へのアンケート調査やインターネット区民アンケート調査を実施し、これら区民意見を踏まえて宣言文の素案を作成した。そしてこの素案に対するパブリックコメントを実施し、若干の文言修正を加えた上で平成17(2005)年区議会第3回定例会に議案として提出した。そして9月22日開会初日の本会議において、都市宣言の趣旨や内容等についての区側説明後、同議案は即時採決に付され、全会一致で可決された。
これまでも述べてきたように、危機的な区財政を再建するための行財政改革を断行する一方で文化政策を柱に据える高野区長の施政方針に対し、「文化で飯は食えない」と批判する声は、議会はもとより、区民の中にも少なくなかった。だがこの都市宣言に対するパブリックコメント等に寄せられた区民意見の大半は、宣言文の文言や表現に関するもので、宣言そのものに反対する意見は見られなかった。これは区制施行70周年記念事業をはじめ、この間に進められてきた「文化フォーラム」や「文化芸術創造支援事業」等の新たな文化事業の展開を目のあたりにし、区のめざす文化政策の方向性が区民の中にも理解され始めた証と言える。区長がそれこそ念仏のごとく唱え続けてきた、「文化は人を元気にし、元気な人が街の活力を生み出す」という考え方が区民の間にも浸透してきたのである。こうした風向きの変化は区議会も同様であったが、この都市宣言が全会一致で可決されたことの意義は大きかった。
平成17(2005)年11月23日、都市宣言を記念する式典が豊島公会堂で開催された(※24)。挨拶に立った区長は、「この宣言は目指すべき豊島区の姿を明らかにする第一歩である」と述べ、さらなる文化政策の展開に向けた決意を表した。式典の最後には、名誉区民で人間国宝の野村萬氏により宣言文が高らかに詠みあげられた。
翌18(2006)年4月1日、この都市宣言に続き、区は文化芸術の振興についての基本理念及び基本事項を定める「文化芸術振興条例」を施行した(※25)。
同条例第2条には、その基本理念として以下の3項目が掲げられている。
翌18(2006)年4月1日、この都市宣言に続き、区は文化芸術の振興についての基本理念及び基本事項を定める「文化芸術振興条例」を施行した(※25)。
同条例第2条には、その基本理念として以下の3項目が掲げられている。
- 1 文化芸術の振興に当たっては、区、区民及び文化芸術団体、地域団体、学校、企業等(以下「文化芸術団体等」という。)が相互に連携し、協働して多種多様な文化芸術を保護及び継承するとともに、次の世代に伝える新たな文化を創造し、誇りと活力に満ちた文化の風薫る地域社会の形成を図ることを基本とする。
- 2 文化芸術の振興に当たっては、文化芸術を創造し、享受する者の権利を尊重するとともに、文化芸術活動を行う者の自主性を尊重するものとする。
- 3 文化芸術の振興に当たっては、地域ではぐくまれた文化芸術を尊重し、多様で特色ある文化芸術の発展を図るものとする。
いずれも「文化創造都市宣言」に呼応した内容であり、続く第3条にはこれらの基本理念を実現するための区の責務として、地域の特性に応じた文化芸術の振興に関する施策を総合的に実施するとともに、区が行う施策に文化的な視点を取り入れるよう努めることが定められ、文化芸術振興に関する計画の策定(第6条)と政策形成に際して専門的見地から助言を受けるための芸術顧問の設置(第7条)が規定された。さらに文化芸術の振興に関する施策の基本となる事項として、文化芸術振興のための支援(第8条)、地域文化、伝統文化の継承及び発展(第9条)、文化芸術の担い手の育成(第10条)、高齢者、障害者等の文化芸術施策の充実(第11条)、子どもたちのための文化芸術施策の充実(第12条)、区民及び文化芸術団体等との連携(第13条)、国の内外との文化芸術交流(第14条)、顕彰(第15条)が挙げられている。また第4条及び第5条には、文化の担い手である区民、地域社会の一員である文化芸術団体等それぞれが果たすべき役割として、自主的かつ創造的な活動を通して文化芸術振興に努めることとされた。
こうした条文内容からも明らかなように、区は文化芸術を振興していく上で区民や文化芸術団体等の自主的な活動を尊重し、支援する立場であり、都市宣言の主語が「わたしたち」であったように、文化創造の主体はあくまでも区民等であるとの考えに立っている。またこうした行政の立場は、平成13(2001)年12月に制定された「文化芸術振興基本法」(29年改正時に「文化芸術基本法」に改称)の前文にも「我が国の文化芸術の振興を図るためには,文化芸術活動を行う者の自主性を尊重することを旨としつつ,文化芸術を国民の身近なものとし,それを尊重し大切にするよう包括的に施策を推進していくことが不可欠である」と示されている。区の「文化芸術振興条例」もこうした国の法規定を踏まえつつ、高齢者や障害者、子どもたちのための文化芸術施策の充実など、懇話会提言に掲げられた「ユニバーサルデザインを基調とする文化都市」の考え方を加味し、自治体レベルでの文化政策に関する基本条例として制定したものであった。
区はこの条例制定にあたってもパブリックコメントを実施しているが、都市宣言の時とは違い、寄せられた意見の中には「現在、(中略)あらゆる文化がマスコミに注目されている。この流れをつかみ、より多くの地域のかたがたに、これらの文化に触れてもらうことは、とても良い、素晴らしい機会である。機は熟すというが、今がその時である。より身近で、より親しみやすいもの、しかし、素材の良いものを伝えていって欲しい」「文化は人と人とのつながりであり、このつながりをすべての区民まで広げることができれば、この条例は成功である」「文化に関するあらゆる事項を網羅しており、大変すばらしい条例である。この条例に子どもたちの育成、特に学校での教育がどの様にリンクしていくのかが、大変興味深い」など条例制定に賛同する意見や、「具体的な地域性のある文化のための課外活動、或いは授業の中に組み入れるためのカリキュラム等、次世代への基本的な施策を思い切って導入して欲しい」「文化施策は団体にかたよりがちで個人をひろうことが難しいため、豊島区では団体でなく個人をフォローするということが明確になれば、特徴的な条例になるのではないか」などの積極的な提案も見られ、文化に対する区民の理解がより一層深まっていることが窺えた。その一方、「この条例の効力(拘束力)はどの程度あるのか」「条例を作って、5年たったら下火になって、文化の声が聞こえなくなっていたら寂しい」など、条例の実効性を危ぶむ意見も見られた。
「文化芸術振興条例」と同時に施行された「自治の推進に関する基本条例」をはじめ、区政の基本方針や区政運営の基本的な枠組みを定める条例は多分に理念的なものであり、区の責務や区民の役割もそのほとんどは努力規定で法的拘束力はない。またこうした条例が制定されたからと言って、急に何かが目に見えて変わるわけでもない。だがこうした基本条例は即効性には欠けるが、時間の経過ととともにじわじわと「効いてくる」ものなのである。条例を制定することにより、区はそれを「根拠」として施策を進めていくことができる反面、条例に反するような施策には「制約」がかけられる。また議会の議決を経て条例化することにより、たとえ首長が交代してもその理念や方針は引き継がれていく。無論、理論上は新たな首長が条例の改廃案を議会に提出し、議会で可決されれば改廃は可能である。だが憲法がそうであるように、基本条例、理念条例であればあるほど、社会経済状況に大きな変化がない限り簡単には改廃できない。そうして年月をかけて区の政策を一定の方向に導いていくものと言え、制定の目的はそれぞれ異なっても、議会の議決を経て都市宣言や基本条例を制定する意義はそこにあると考える。そしてこの文化芸術振興条例も、区議会において全会一致で可決された。また前項で述べたとおり、19(2007)年4月の組織改正では文化政策と商工・観光政策を一体的に進めていくため、「文化商工部」が創設された。都市宣言、条例そして推進組織と、文化政策を展開していくための制度的な基盤が整えられたのである。
「文化創造都市宣言」「文化芸術振興条例」の制定以後、区は文化を基軸とするまちづくりを加速させていった。翌19(2007)年、東池袋交流施設「あうるすぽっと」と新中央図書館が開館し、新たな文化創造拠点として様々な事業をスタートさせるとともに、にしすがも創造舎での「子どものための文化体験プログラム」や舞台芸術学院との連携による「アートキャンパス事業」などの新規事業を展開していった。また「新池袋モンパルナス西口まちかど回遊美術館」や「目白バ・ロック音楽祭」、染井吉野発祥の地・駒込の地域ブランドづくりなど、地域の文化資源を活かした区民主体の取り組みも動き出した。これら事業については次項以降で詳述するが、文化施策・文化事業の加速度的な展開は「文化」を媒介とする人々のつながりを広げ、まちに活気を与えていった。
こうした条文内容からも明らかなように、区は文化芸術を振興していく上で区民や文化芸術団体等の自主的な活動を尊重し、支援する立場であり、都市宣言の主語が「わたしたち」であったように、文化創造の主体はあくまでも区民等であるとの考えに立っている。またこうした行政の立場は、平成13(2001)年12月に制定された「文化芸術振興基本法」(29年改正時に「文化芸術基本法」に改称)の前文にも「我が国の文化芸術の振興を図るためには,文化芸術活動を行う者の自主性を尊重することを旨としつつ,文化芸術を国民の身近なものとし,それを尊重し大切にするよう包括的に施策を推進していくことが不可欠である」と示されている。区の「文化芸術振興条例」もこうした国の法規定を踏まえつつ、高齢者や障害者、子どもたちのための文化芸術施策の充実など、懇話会提言に掲げられた「ユニバーサルデザインを基調とする文化都市」の考え方を加味し、自治体レベルでの文化政策に関する基本条例として制定したものであった。
区はこの条例制定にあたってもパブリックコメントを実施しているが、都市宣言の時とは違い、寄せられた意見の中には「現在、(中略)あらゆる文化がマスコミに注目されている。この流れをつかみ、より多くの地域のかたがたに、これらの文化に触れてもらうことは、とても良い、素晴らしい機会である。機は熟すというが、今がその時である。より身近で、より親しみやすいもの、しかし、素材の良いものを伝えていって欲しい」「文化は人と人とのつながりであり、このつながりをすべての区民まで広げることができれば、この条例は成功である」「文化に関するあらゆる事項を網羅しており、大変すばらしい条例である。この条例に子どもたちの育成、特に学校での教育がどの様にリンクしていくのかが、大変興味深い」など条例制定に賛同する意見や、「具体的な地域性のある文化のための課外活動、或いは授業の中に組み入れるためのカリキュラム等、次世代への基本的な施策を思い切って導入して欲しい」「文化施策は団体にかたよりがちで個人をひろうことが難しいため、豊島区では団体でなく個人をフォローするということが明確になれば、特徴的な条例になるのではないか」などの積極的な提案も見られ、文化に対する区民の理解がより一層深まっていることが窺えた。その一方、「この条例の効力(拘束力)はどの程度あるのか」「条例を作って、5年たったら下火になって、文化の声が聞こえなくなっていたら寂しい」など、条例の実効性を危ぶむ意見も見られた。
「文化芸術振興条例」と同時に施行された「自治の推進に関する基本条例」をはじめ、区政の基本方針や区政運営の基本的な枠組みを定める条例は多分に理念的なものであり、区の責務や区民の役割もそのほとんどは努力規定で法的拘束力はない。またこうした条例が制定されたからと言って、急に何かが目に見えて変わるわけでもない。だがこうした基本条例は即効性には欠けるが、時間の経過ととともにじわじわと「効いてくる」ものなのである。条例を制定することにより、区はそれを「根拠」として施策を進めていくことができる反面、条例に反するような施策には「制約」がかけられる。また議会の議決を経て条例化することにより、たとえ首長が交代してもその理念や方針は引き継がれていく。無論、理論上は新たな首長が条例の改廃案を議会に提出し、議会で可決されれば改廃は可能である。だが憲法がそうであるように、基本条例、理念条例であればあるほど、社会経済状況に大きな変化がない限り簡単には改廃できない。そうして年月をかけて区の政策を一定の方向に導いていくものと言え、制定の目的はそれぞれ異なっても、議会の議決を経て都市宣言や基本条例を制定する意義はそこにあると考える。そしてこの文化芸術振興条例も、区議会において全会一致で可決された。また前項で述べたとおり、19(2007)年4月の組織改正では文化政策と商工・観光政策を一体的に進めていくため、「文化商工部」が創設された。都市宣言、条例そして推進組織と、文化政策を展開していくための制度的な基盤が整えられたのである。
「文化創造都市宣言」「文化芸術振興条例」の制定以後、区は文化を基軸とするまちづくりを加速させていった。翌19(2007)年、東池袋交流施設「あうるすぽっと」と新中央図書館が開館し、新たな文化創造拠点として様々な事業をスタートさせるとともに、にしすがも創造舎での「子どものための文化体験プログラム」や舞台芸術学院との連携による「アートキャンパス事業」などの新規事業を展開していった。また「新池袋モンパルナス西口まちかど回遊美術館」や「目白バ・ロック音楽祭」、染井吉野発祥の地・駒込の地域ブランドづくりなど、地域の文化資源を活かした区民主体の取り組みも動き出した。これら事業については次項以降で詳述するが、文化施策・文化事業の加速度的な展開は「文化」を媒介とする人々のつながりを広げ、まちに活気を与えていった。
そしてこうした取り組みが評価され、平成20(2008)年12月19日、豊島区は「文化庁長官表彰【文化芸術創造都市部門】」の受賞都市に選定された(※26)。
この「文化芸術創造都市部門」は前年度に創設され、地域の特色を活かした文化芸術の振興に行政と住民との協働、行政と企業や大学との協力等により取り組み、他の地域の参考になるような実績をあげている市区町村を顕彰するもので、毎年度全国から4都市が選定された。第1回目の19(2007)年度には横浜市、金沢市、近江八幡市、沖縄市が選定され、2回目となった20(2008)年度の受賞団体として、札幌市、兵庫県篠山市、山口県萩市に並び、豊島区が都内で初めて選ばれたのである。
いずれも地域固有の歴史や文化に彩られた都市が選ばれている中で、豊島区が選ばれたことに区内外から驚きの声があがった。20(2008)年12月9日に文化庁より受賞の内定を受け、12月15日に開会された区議会議員協議会にその報告をした際も、区長自身が受賞内定の知らせに戸惑ったと正直な反応を吐露している。また、年明けて1月30日の表彰式当日には、表彰状を授与した当時の青木保文化庁長官から「なんで豊島区が」と冗談交じりに言われたという。同長官は世田谷区在住だったそうで、世田谷区と言えば昭和50(1975)年から7期28年にわたり住民参加のまちづくりを進めた大場啓二区長のもとで、世田谷美術館、文学館、パブリックシアターを次々整備し、特色ある文化政策の先進区と言われていた。また、同じ副都心の中でも、新宿区や渋谷区のまちづくりに後塵を拝していた豊島区は、文化面においても特にこれといった特色がないと言われていたのである。そんな豊島区が23区初の栄誉に与ることなど、誰にとっても思いがけないことであった。文化庁長官の冗談交じりの発言もそのような周囲の声を代弁したものではあったが、裏返せば豊島区の快挙に対する忌憚のない賛辞でもあったのでる。
この「文化芸術創造都市部門」が創設された背景には、産業構造の変化により都市の空洞化や荒廃が世界先進諸国の共通課題となるなか、欧州を中心に行政、芸術家や文化団体、企業、大学、住民などが連携し、文化芸術の持つ創造性を活かした産業振興や地域活性化の取り組みが進められ、「クリエイティブ・シティ」として注目されていたことがあった。文化庁はこうした国際的な動向を踏まえ、文化芸術の持つ創造性を地域振興、観光・産業振興等に領域横断的に活用し、地域課題の解決に取り組む地方自治体を「文化芸術創造都市」に位置づけ、これを顕彰するとともに創造都市間のネットワーク構築を図ろうとしたのである。すなわち、この賞が対象としていたのは過去の文化集積ではなく、行政と住民等、幅広い地域の主体との協働による現在進行形の取り組みであり、それが地域の活性化につながっているかどうかであった。
19・20(2007・2008)年度受賞8都市を紹介する文化庁作成の小冊子には、以下のように豊島区の取り組み状況が記されている。
この「文化芸術創造都市部門」は前年度に創設され、地域の特色を活かした文化芸術の振興に行政と住民との協働、行政と企業や大学との協力等により取り組み、他の地域の参考になるような実績をあげている市区町村を顕彰するもので、毎年度全国から4都市が選定された。第1回目の19(2007)年度には横浜市、金沢市、近江八幡市、沖縄市が選定され、2回目となった20(2008)年度の受賞団体として、札幌市、兵庫県篠山市、山口県萩市に並び、豊島区が都内で初めて選ばれたのである。
いずれも地域固有の歴史や文化に彩られた都市が選ばれている中で、豊島区が選ばれたことに区内外から驚きの声があがった。20(2008)年12月9日に文化庁より受賞の内定を受け、12月15日に開会された区議会議員協議会にその報告をした際も、区長自身が受賞内定の知らせに戸惑ったと正直な反応を吐露している。また、年明けて1月30日の表彰式当日には、表彰状を授与した当時の青木保文化庁長官から「なんで豊島区が」と冗談交じりに言われたという。同長官は世田谷区在住だったそうで、世田谷区と言えば昭和50(1975)年から7期28年にわたり住民参加のまちづくりを進めた大場啓二区長のもとで、世田谷美術館、文学館、パブリックシアターを次々整備し、特色ある文化政策の先進区と言われていた。また、同じ副都心の中でも、新宿区や渋谷区のまちづくりに後塵を拝していた豊島区は、文化面においても特にこれといった特色がないと言われていたのである。そんな豊島区が23区初の栄誉に与ることなど、誰にとっても思いがけないことであった。文化庁長官の冗談交じりの発言もそのような周囲の声を代弁したものではあったが、裏返せば豊島区の快挙に対する忌憚のない賛辞でもあったのでる。
この「文化芸術創造都市部門」が創設された背景には、産業構造の変化により都市の空洞化や荒廃が世界先進諸国の共通課題となるなか、欧州を中心に行政、芸術家や文化団体、企業、大学、住民などが連携し、文化芸術の持つ創造性を活かした産業振興や地域活性化の取り組みが進められ、「クリエイティブ・シティ」として注目されていたことがあった。文化庁はこうした国際的な動向を踏まえ、文化芸術の持つ創造性を地域振興、観光・産業振興等に領域横断的に活用し、地域課題の解決に取り組む地方自治体を「文化芸術創造都市」に位置づけ、これを顕彰するとともに創造都市間のネットワーク構築を図ろうとしたのである。すなわち、この賞が対象としていたのは過去の文化集積ではなく、行政と住民等、幅広い地域の主体との協働による現在進行形の取り組みであり、それが地域の活性化につながっているかどうかであった。
19・20(2007・2008)年度受賞8都市を紹介する文化庁作成の小冊子には、以下のように豊島区の取り組み状況が記されている。
文化創造都市宣言(平成17年)に基づく、文化芸術振興条例を制定し(平成18年)、「文化と品格を誇れる価値あるまち」づくりを進めています。
閉校となった学校施設を文化芸術創造の拠点とした「にしすがも創造舎」では、NPO法人の運営により、劇団や文化芸術団体等の作品制作や稽古等の場の提供、子どもたちのワークショップや地域住民との交流事業を実施しています。また、平成19年オープンのあうるすぽっと(舞台芸術交流センター)・中央図書館において、舞台芸術の創造発信、担い手育成によるにぎわいの創出とまちの活性化を図っています。さらに、屋外空間における音楽やアートパフォーマンス等を楽しめるイベントの開催をはじめ、オープンカフェの設置など、まちそのものを創造空間とする取組や江戸川乱歩に関する資源の発掘、新池袋モンパルナス西口まちかど回遊美術館など豊島区の文化資源の再発見、編集、創造に努めています。
閉校となった学校施設を文化芸術創造の拠点とした「にしすがも創造舎」では、NPO法人の運営により、劇団や文化芸術団体等の作品制作や稽古等の場の提供、子どもたちのワークショップや地域住民との交流事業を実施しています。また、平成19年オープンのあうるすぽっと(舞台芸術交流センター)・中央図書館において、舞台芸術の創造発信、担い手育成によるにぎわいの創出とまちの活性化を図っています。さらに、屋外空間における音楽やアートパフォーマンス等を楽しめるイベントの開催をはじめ、オープンカフェの設置など、まちそのものを創造空間とする取組や江戸川乱歩に関する資源の発掘、新池袋モンパルナス西口まちかど回遊美術館など豊島区の文化資源の再発見、編集、創造に努めています。
これらの取り組みが評価され受賞につながったものであるが、いずれも平成16(2004)年1月の文化政策懇話会提言に示された「芸術文化創造環境づくり」、「パブリックライフを楽しめる環境づくり」、「豊島区らしい風景づくり」の3つの施策の方向を具体化するものであり、区民やNPO等との協働により取り組んだ成果に他ならなかった。平成14(2002)年9月、同懇話会を立ち上げる際、福原義春座長に「提言をいただいたら必ず実現します」と誓った区長はその約束を果たしたと言え、また同年7月、場外車券売場問題で経済産業省に陳情に訪れた際に、平沼大臣から「区長はどういうまちを創ろうとしているのか」と問われたことに対する答えを目に見える形にしたものと言えた。
平成21(2009)年2月20日、区議会第1回定例会の招集あいさつの中で、区長はこの平成14(2002)年からの7年間の歩みを振り返り、受賞の喜びと文化創造都市の実現に向けたさらなる決意を次のように述べている(※27)。
-今回の受賞は、まさに地域を挙げた取り組みの積み重ねが認められ、評価されたものであります。平成17年度に文化創造都市宣言を行い、文化と品格を誇れる価値あるまちを目指す豊島区にとって大変な栄誉であり、大きな自信と勇気を与えてくれました。
(中略)私は、文化の力とは、芸術やアートの領域にとどまるものではなく、心豊かに生きるための人間力、地域の絆とアイデンティティを深める地域力、そして、新たな価値を生み出す創造力という3つの側面を持つものであると考えております。これらの力は、それぞれが相互に循環しながら豊かな流れを生み出し続けるエンジンであり、文化を中心に都市づくりをデザインすることで、明日をひらく経済力を生み出していく姿こそ、私が目指す未来戦略であります。文化には、時代の閉塞感や不透明な将来といった、私たちの前に立ちふさがる壁を打ち破る力があります。人々の心に感動をもたらすことで、塞ぎがちな社会を元気付け、困難に立ち向かう勇気を呼び起こす力を持っているのであります。平成21年度についても、文化創造都市の実現に向け、文化の力をすべての政策に広げながら新たな挑戦を続けてまいります。
(中略)私は、文化の力とは、芸術やアートの領域にとどまるものではなく、心豊かに生きるための人間力、地域の絆とアイデンティティを深める地域力、そして、新たな価値を生み出す創造力という3つの側面を持つものであると考えております。これらの力は、それぞれが相互に循環しながら豊かな流れを生み出し続けるエンジンであり、文化を中心に都市づくりをデザインすることで、明日をひらく経済力を生み出していく姿こそ、私が目指す未来戦略であります。文化には、時代の閉塞感や不透明な将来といった、私たちの前に立ちふさがる壁を打ち破る力があります。人々の心に感動をもたらすことで、塞ぎがちな社会を元気付け、困難に立ち向かう勇気を呼び起こす力を持っているのであります。平成21年度についても、文化創造都市の実現に向け、文化の力をすべての政策に広げながら新たな挑戦を続けてまいります。
平成21(2009)年12月12日、文化庁長官表彰受賞を祝う記念式典が開催され、この受賞に大きく貢献したにしすがも創造舎のANJと芸術家と子どもたちの2NPO法人をはじめ、池袋モンパルナス等の文化資源の掘り起こしに取り組んでいる団体や、文化芸術、教育、産業・まちづくり、福祉等の幅広い分野で文化を基軸とした活動に取り組んでいる団体、計27団体に文化功労表彰が授与された(※28)。区は17(2005)年の文化創造都市宣言の際にも54団体を顕彰しているが、これら区民等の地域に根ざした様々な活動が豊島区の文化を支え、文化創造都市の土壌を形成していることを物語るものであった。式典でのあいさつの中で、区長も「本日の受賞者の皆様の活動は、誇るべき地域の宝で、豊島区の活力の源である」と称え、価値あるまち、愛すべき郷土を次世代へ引き継ぐための引続きの協力を求めた。
こうして文化庁長官表彰受賞を契機に、地域を挙げての「文化創造都市」づくりはさらに加速していくことになるが、それについては次項以降で述べていく。この項を閉じるにあたり、区の文化政策が歩み出す端緒となった「ふるさと豊島を想う会」のふたりのキーマン、小田島雄志氏と粕谷一希氏から受賞にあたって寄せられたメッセージを以下に記す(※29)。
こうして文化庁長官表彰受賞を契機に、地域を挙げての「文化創造都市」づくりはさらに加速していくことになるが、それについては次項以降で述べていく。この項を閉じるにあたり、区の文化政策が歩み出す端緒となった「ふるさと豊島を想う会」のふたりのキーマン、小田島雄志氏と粕谷一希氏から受賞にあたって寄せられたメッセージを以下に記す(※29)。
芸術顧問 小田島雄志氏
-いうまでもなく、芝居には劇場と観客が必要です。劇場と観客が―体となって芝居を育て、芝居は観客の感性を鍛え、劇場の評価を高めていく、そんな緊張関係がそれぞれの更なる発展を促していきます。
これは、舞台の上で繰り広げられる演劇の話ではありません。「芝居」とは「地域における様々な文化的な取組み」です。「劇場」とは「豊島区」です。そして、「観客」とは「区民の皆さん」です。
平成17年9月の「文化創造都市宣言」以来、地域の方々とともに「文化の風薫るまちとしま」の実現に向けて歩んできた豊島区が、さらに光り輝き、首都・東京をリードする文化芸術創造都市として、その成果を発信し続けることを願ってやみません。
図書館行政政策顧問 粕谷一希氏
-芝居は言葉であり、図書館は文字です。池袋の繁華街に文化発信の二つの原動力をもった豊島区は、まさに21世紀型都市の方向を語っています。昨秋行われた「図書館サミット」も、自治体の図書館が全国に呼びかけて、何ができるかの実験でした。
文化庁からの表彰もひとつのきっかけ、われわれ26万人の区民は工夫と創造によって世界市民の道を目指しましょう。自治体が元気の源であることを願いつづけましょう。
-いうまでもなく、芝居には劇場と観客が必要です。劇場と観客が―体となって芝居を育て、芝居は観客の感性を鍛え、劇場の評価を高めていく、そんな緊張関係がそれぞれの更なる発展を促していきます。
これは、舞台の上で繰り広げられる演劇の話ではありません。「芝居」とは「地域における様々な文化的な取組み」です。「劇場」とは「豊島区」です。そして、「観客」とは「区民の皆さん」です。
平成17年9月の「文化創造都市宣言」以来、地域の方々とともに「文化の風薫るまちとしま」の実現に向けて歩んできた豊島区が、さらに光り輝き、首都・東京をリードする文化芸術創造都市として、その成果を発信し続けることを願ってやみません。
図書館行政政策顧問 粕谷一希氏
-芝居は言葉であり、図書館は文字です。池袋の繁華街に文化発信の二つの原動力をもった豊島区は、まさに21世紀型都市の方向を語っています。昨秋行われた「図書館サミット」も、自治体の図書館が全国に呼びかけて、何ができるかの実験でした。
文化庁からの表彰もひとつのきっかけ、われわれ26万人の区民は工夫と創造によって世界市民の道を目指しましょう。自治体が元気の源であることを願いつづけましょう。