豊島区の平成史を彩る様々な出来事を現場レポート
文化芸術創造都市への挑戦 ≪その1≫
東澤 昭
(平成15~18年 文化デザイン課長)1 文化不毛の地と呼ばれた日
歴史を振り返るとき、どの時点を起点とするのか、また、誰の視点から記述するのかということは、なかなか厄介な問題だろうと思います。「ゆく河の流れは絶えずして…」という方丈記のあまりに有名な一節を引用するまでもなく、時間は絶えず流れて過ぎ去って行き、《現在》という瞬間はあっという間に《過去》となって、その視座も一向に定めようがないからです。
十数年も前のことです。豊島公会堂での落語会で、名の知れたある噺家さんが噺の枕で「この文化不毛の地、池袋で…云々」と言うのを聞いて衝撃を受けたものでしたが、考えてみればそれも無理からぬこと。当時は確かに「クライ、キタナイ、コワイ」という3K都市の代表のような呼ばれ方をされることもあったのです。
しかし、それからわずか数年後、その豊島区が東京都内で初めて《文化芸術創造都市部門》での文化庁長官表彰を受賞したばかりか、さらにその数年後には、文化芸術の先進都市として「国際アート・カルチャー都市」を標榜し、今や「東アジア文化都市」の国内候補都市として国を代表する文化都市に選定されるまでになることを、あの時一体誰が予見し得たでしょう。
区長就任以来、財政破綻寸前の豊島区の舵取りを任された高野区長が文化によるまちづくりを宣言し、「文化じゃメシは食えないぞ!」と揶揄されながらも粘り強くその必要性を説き続け、将来ビジョンを掲げるとともに、徐々に区民や行政組織、職員の意識を変えていった、その強力なリーダーシップと実行力の素晴らしさには、今さらながら脱帽するほかありません。
しかしその一方で、強い区長の方針に心ならずも疑問を感じ、時に迷い、苦悩する中で力を尽くした多くの区民、職員がいたことも確かです。そうした人々の視点から見えていたもの、様々な声のあったことを忘れてはならないでしょう。
美しい富士の山も見る場所、時間、描く人によってまったく異なる姿を現すものです。私自身は、高野区政が取り組んだ「文化のまちづくり」のほんのわずかな場面に一担当者として居合わせたに過ぎませんが、そうした職員の立場から、今改めてこれまでの来し方を振り返ってみたいと思います。
2 文化のまちづくりに大きく舵を切った平成14年
豊島区における「文化のまちづくり」の起点になったのが、平成14(2002)年だったということに異論のある人はいないだろうと思います。
この年、豊島区は、区制施行70周年の節目を迎え、「躍動 感動 創造 ともに創ろう 文化の風薫るまち としま」をスローガンに掲げ、区民をはじめ、民間団体、企業、大学等の協力を得て、様々な記念事業に取り組みました。
173事業、延べ274万人以上が参加したとされるこの記念事業は、地域文化発展への大きな機運の高まりとなり、これを契機として、豊島区は文化を区政の大きな柱の一つとして推進することになったのです。
この頃、私は福祉分野で介護保険課に在籍していましたから、そうしたイベントには無縁で、むしろ、この財政難の時期に多額の予算をつぎ込む記念事業には冷ややかな目を向けていました。何しろこの年の区財政の負債残高(借金)は、ピーク時の平成11年度から徐々に減りつつあったとはいえ783億円もあり、それに対して基金残高(貯金)はわずか30億円に過ぎず、枯渇することが現実味を帯びつつあった時期なのですから。
そうした時に、あえてオール豊島での記念事業を展開したのは、財政難によって区政全体を覆うようだった重苦しい閉塞感を文化の力で打ち破ろうとする高野区長の強い思いがあったからこそでした。
後年、この年を振り返った時、いくつかの事業のために文化振興基金の取り崩しはありましたが、極めて切り詰めた予算で実施されていたことに驚いたものです。区長の口癖でもある、「金がなければ知恵を出せ、知恵がなければ汗をかけ」の言葉どおりなのですが、当時、担当された皆さんのご苦労はいかばかりかと、心からの敬意を表したいと思います。
区制施行70周年記念事業として区や教育委員会が関わったものとしては、西武ギャラリーで開催された「江戸川乱歩展~蔵の中の幻影城」や、東京芸術劇場展示ギャラリーでの「洋画家/森田茂作品展」が記憶に残っています。しかし、173事業の大半は、区民をはじめとする地域の団体が主体となった取り組みを「記念事業」に位置づけ、実施したものでした。予算がないからこその窮余の策でしたが、このことは区民が連帯した大きなうねりとなって功を奏し、平成17年度の「文化創造都市宣言」、平成24年度の「区制施行80周年」、「WHOセーフコミュニティ国際認証取得」など、後年のエポックメイキングな年における区を挙げての取り組みのモデルとなりました。
また、池袋西口公園では、地域の団体や有志の方々の浄財によって整備された《野外ステージ》が区に寄贈されました。このステージからはその後さまざまなイベントが生まれ、文化の発信拠点となっています。
このほか、全国に歌詞を公募し、歌手のさだまさしさんに作曲を依頼した「豊島区民の歌『としま未来へ』」は、多くの区民に愛され、各団体や区内小中学校の児童・生徒によって歌い継がれています。毎年の「成人の日のつどい」でも必ず会場全体で合唱される歌ですが、この頃、小学校の低学年だった子どもたちが今はもう成人しているのですから、まさに区民の財産になっているといってよいでしょう。
加えて、この年、区では庁内の組織再編を進め、企画部(現・政策経営部)や区民部、教育委員会等に分散していた文化施策の担当課を一つにまとめるとともに、商工施策や観光振興施策を担当する部局を設置する組織改正案が立案されました。この組織改正により、翌平成15年度に「文化デザイン課」が生まれるのです。
さらにもう一つ、その後の豊島区の文化政策に大きな影響を及ぼす取り組みがありました。それが「豊島区文化政策懇話会」の設置です。
平成14年9月5日にその第1回が開催された懇話会のことを、分野の異なる部署にいた私は報道発表で知りましたが、座長に資生堂名誉会長の福原義春氏が就任されたということに密かな興奮を覚えたものです。
福原義春氏といえば、企業メセナ協議会会長のほか、東京都写真美術館館長を務められるなど、わが国を代表する文化人です。これまで、ガンバってはいるけれど、どうしても内向き志向になっていた豊島区の文化を一挙に広がりのあるものにするきっかけになるのではないか、そんな予感を感じました。
福原氏が当初、座長への就任要請を固辞されていたことは、ご自身も様々な場で明らかにされています。「自分は文化政策の専門家ではない」「自分は銀座人であって、豊島区には地縁がない」「これまで様々な地域の行政が作る文化の計画に関わってきたが、それらはすべて時間の無駄に終わり、何の成果も実現していない」というのが大きな理由です。
それに対し、「いただいた提言は決して無駄にはしない」「必ず実現します」と、心を尽くして自ら要請を重ねたのが高野区長だったのです。そして、その言葉に偽りはありませんでした。
3 「文化政策懇話会の提言」から始まる文化芸術創造都市への歩み
平成15(2003)年4月、区民部に文化デザイン課が新設され、その課長として配属された私は、早速、「文化政策懇話会」の運営に携わることになります。
懇話会は翌16(2004)年1月の提言まで8回開催され、懇話会委員の中から選ばれたメンバーによる専門部会も9回開催されることになるのですが、平成14年度中にすでに各4回ずつ開催されていました。
私自身は、若い時から演劇に関わってきてはいましたが、文化政策を勉強したこともなく、ローカル線の鈍行列車からいきなり急行列車に乗り込むような思いで懇話会に臨まざるを得ませんでした。
急ごしらえの勉強で、上司だった大沼区民部長(当時)に教えてもらった福原義春氏の著作や、懇話会専門部会長で、わが国の文化経済学、文化政策学をリードする存在だった後藤和子氏(当時、埼玉大学経済学部助教授、平成16年度から教授。現・摂南大学教授)の書かれた本や論文を矢継ぎ早に読んで刺激を受けたことを懐かしく思い出します。
懇話会の委員には、このほか雑誌「中央公論」や「東京人」の名編集長だった粕谷一希氏や、東京音楽大学学長の兎束俊之氏をはじめ、都市計画や福祉分野の専門家、社会学の研究者、アーツコンサルタント、音楽スタジオの経営者等々、少数ではあるけれど多彩な方々が名を連ねていました。さらに、二人の大学院生が調査員として加わり、様々なデータの収集や調査にあたっていました。この二人とも、今では大学の准教授や公共劇場の運営者として活躍しています。
文化政策懇話会に携わってとりわけ印象的だったのは、各委員の問題意識や参加意欲の高さ、結束の強さとでもいうものでしょうか。福原座長は超多忙にも関わらず全ての懇話会に出席され、部会からの報告や各委員からの意見に的確にコメントされたり、国内外の最新の動向についてお話されたりしてくださいました。そうした座長の姿勢に後押しされ、各委員もより良い提言をまとめようと懸命に取り組んだように思います。
その一つの表われが、委員同士の熱い議論です。私自身、その後も様々な審議会や検討会議に参加しましたが、たいていの審議会では、行政や事務局からの報告・説明や検討のまとめに対して委員が質問するというスタイルで進められ、委員同士が議論するという場面はあまりないのが一般的です。
それに対し、この懇話会、特に専門部会では委員同士が闊達に意見を戦わせ、事務局も自分たちなりの意見やアイデアを持って議論に加わることが多かったのです。ある時、文化政策に関する考え方の変遷について話が及び、その中でもコミュニティ・アートの試みが広がったのがどの時代からだったのかについて意見が分かれました。認識の隔たりは埋まらず、しばらくの間、研究者とアートの実践者のプライドをかけた議論が続きましたが、そうした真剣勝負には大いに刺激を受けたものです。
また、提言書のまとめにあたっても、通常であれば、各委員の意見をもとに事務局が素案をまとめるのが一般的ですが、専門部会委員からは、「せっかくだから提言も自分たちで執筆しよう」「そのために皆で合宿しよう」という話が出て盛り上がりました。
さすがに、泊りがけの合宿という訳にはいきませんでしたが、この年の10月19日、専門部会集中作業と称して、部会員と事務局が豊島区民センターに集まり、各自パソコンを持ち込んで、朝から夜まで議論と執筆作業に没頭しました。各自分担を決め、私たち事務局も含めて原稿を書き、それを持ち寄っては意見交換するという楽しい作業でした。
一方、息抜きとして、懇話会委員のお一人だった西島由紀子さんの経営する音楽スタジオにライブを聞きに行ったこともありました。そうした緊張と楽しみの絶妙なバランスの中で様々なアイデアも生まれたのでした。
ちょうどその頃、後藤和子部会長の監訳された都市計画家チャールズ・ランドリーの著作「創造都市~都市再生のための道具箱」が刊行されました。早速買い求めましたが、専門部会からの帰途、そのことに話が及び、「どう思ったか。翻訳が読みにくくなかったか」など、感想を求められたことを思い出します。
創造都市論のバイブルとも言えるこの本からは、たくさんのことを教えられました。私自身、様々な機会に文化事業に関連した文章を書いたり、挨拶原稿を求められたりした折など、ランドリーの言葉を引用したことも一度や二度ではありません。
特に印象に残っているのはこんな一節です。
「都市は、一つの決定的に重要な資源を持っている――それは、そこに住む人々である。」
「文化は、ある場所が固有であり特有のものであることを示す一連の資源である。過去の資源は、人を元気づけ、未来に対する自信を与えることができる。」
「創造性は新しいものの継続的な発明ではなく、いかにふさわしく過去を扱うかである。」
これらは今も座右の銘として、反芻する言葉となっています。
平成16(2004)年1月30日、懇話会からの提言書「豊島区の文化政策に関する提言~としま文化特区の実現に向けて~」が福原義春座長から高野区長に手渡されました。
この提言書はインターネットで検索すれば簡単に読むことができますから、詳細は省きますが、提言の冒頭に福原座長がお書きになっている「今回の提言書はある部分はデータベースであり、ある部分は発見であり、あるいは抽象的な方向づけであり、またある部分は具体的な提言を含んでいる。遅くも数年の内にはそのいくつかが実現し、文化政策による地域づくりが目に見えるようになると、その勢いは加速度的になるだろうと願っている。」というように、まさにその後の高野区政が取り組む文化政策の指針となり、誘導するものとなったのです。
現在、豊島区では「国際アート・カルチャー都市構想」を推進していますが、今実現しつつある取り組みのほとんどはすでにこの文化政策懇話会提言書の中に書かれ、先取りされていたと言っても過言ではないでしょう。
提言において大きな目標として掲げられた「文化特区構想」ならびにその後策定を予定していた文化政策推進プランの考え方について、平成16年第2回区議会定例会における一般質問に対して、高野区長は以下のような答弁を行っています。
「(略)文化特区についてでございますが、様々な規制を緩和しながら、文化・芸術の創造環境を整備し、街の魅力と価値を高めたうえで、文化関連産業の誘致を図るなど、街づくりや経済の活性化とも関連づけながら、区民が心の豊かさを実感できるような、活力ある地域社会の実現を目指すものであります。
例えば、駅周辺の広場的な機能を持った公園や道路において、野外コンサートやイベント等が活発に行われるよう、占用規定や交通規制の緩和を検討することなどが取り組みの一例として挙げられます。
こうした文化特区構想実現の筋道の一つが、現在策定中の文化政策推進プランであります。
その特徴でありますが、第一に、文化政策を従来のいわゆる『文化・芸術振興策』の範囲にとどめることなく、産業や観光、生涯学習、福祉、まちづくりなど、広がりを持ったものと捉えていることであります。
さらに、文化政策を推進する担い手を、行政のみならず、区民をはじめ、NPO団体や企業、大学、各種学校等、多様なものと捉え、それらがパートナーシップを構築しながら推進していくことの重要性を明確にしております。
また、昔からある豊島区ならではの文化資源をあらためて見直し、再評価しながら、新たな創造活動を派生させ、街の活性化につなげていくような仕組みづくりに視点をおいたことも特徴の一つであります。
私といたしましては、『質の高い芸術文化創造環境の整備』ならびに、これからの文化を担う『人材の育成』を重点としながら、力点を置く事業として、のちほど触れます『文化芸術創造支援事業』や『としま文化フォーラム』の実施、さらには、区の魅力を内外に発信するとともに、観光資源の開発にもつながる『ロケーションボックス事業』等を推進してまいりたいと考えております。
なお、文化政策を強力に推し進めるためには、文化担当セクションの一元化をはじめ、本区の様々な文化・芸術事業実施に大きな役割を担っているコミュニティ振興公社と豊島区の両輪体制の強化が必要であり、今後とも、より効果的な組織体制の構築を図ってまいります。(以下略)」
この答弁は、当初、懇話会座長への就任を固辞された福原義春氏に対し、区長が「いただいた提言は必ず実現します」と言った《約束》の一つの表れであり、その後、粘り強く進めることになる文化政策の取り組みへの意思表示だったのです。
この項の最後にもう一つ。
懇話会提言の中で、福原座長は、平成15(2003)年12月に、「日仏都市会議2003」名誉会長として、仏・ナント市を訪問、視察した経験をもとに、海運と造船業の二大産業を失い衰退していたナント市が、文化政策を柱とした取り組みによって復興した事例や、その一環として開催される音楽祭「ラ・フォル・ジュルネ」を紹介しています。
その「ラ・フォル・ジュルネ」が提言から14年を経て、2018年5月、豊島区池袋エリアでの開催が実現しました。そのことに深い感慨を覚えずにはいられません。
関連年表
平成14年 | 4月 | 区制施行70周年記念事業スタート |
---|---|---|
5月25日 | 池袋西口公園野外ステージ完成 | |
9月5日 | 「文化政策懇話会」発足(H16年1月区長提言まで8回開催) | |
10月1日 | 区制施行70周年記念式典 | |
平成15年 | 1月12日 | 「洋画家森田茂作品展」開催(1月17日まで) |
1月13日 | 区民の歌「としま未来へ」発表会&さだまさしミニコンサート開催 | |
1月29日 | 「江戸川乱歩展」開催(2月9日まで) | |
4月1日 | 区民部に「文化デザイン課」新設 | |
平成16年 | 1月30日 | 文化政策懇話会「豊島区の文化政策に関する提言」を区長に提出 |
平成17年 | 4月1日 | コミュニティ振興公社と街づくり公社を統合、「としま未来文化財団」設立 |
9月22日 | 文化創造都市宣言 | |
11月23日 | 文化創造都市宣言記念式典 |