1
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B.C.3000年頃
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-3000
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縄文前期の黒浜式土器、染井墓地の一角から出土(1974.9.11岡本勇採集)【通1-45】
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2
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B.C.500-1500年頃
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-500~ 1500
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池袋貝塚(池袋本町3丁目氷川神社北側、氷川社裏貝塚または池袋村貝塚ともいう)形成される。シジミが多い主淡貝塚。堀之内Ⅱ式・加曾利BⅠ式・加曾利BⅡ式・曾谷式、安行Ⅰ式、安行Ⅱ式、安行Ⅲa式、安行Ⅲb式、安行Ⅲc式など縄文後期・晩期に属する縄文土器出土。また石鏃・打製石斧・麿製石斧・両頭石斧・石棒・玉類・凹み石・磨石・みみづく形土偶などが発見される。氷川神社境内の発掘によって、堀之内Ⅱ式・安行Ⅲc式の土器片が出土したが、これも池袋貝塚遺跡の縁辺部とみられる。この池袋貝塚のほかに、縄文遺跡として、池袋~(略)
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3
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B.C.3世紀-3世紀頃
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-200~ 300
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区内の弥生遺跡。谷戸川水系に駒込5-5の染井墓地内と駒込6-5付近の2か所、谷端川水系に池袋貝塚(縄文後晩期との複合遺跡)の1か所、神田川水系に目白2-28、3-17付近の1か所あり 【通1-54~57】
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4
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仁徳10年10月
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322/10
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摂津の国茨田(まんだ)の堤を築いた時、武蔵国豊島郡の人強頸(こわくび)が人柱となり工事が完成したという 【日本書紀】
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5
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仁徳48年春
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360
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戸田真人が武蔵国豊島郡を狩猟して2頭の狐を得て帰り、天皇に奏したという 【類聚国史】
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6
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白雉2年5月
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651/5
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日本武尊を祭り白鳥社と号す。これが後の妙義社という 【資3-442】
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7
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白鳳2年
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673
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白鳥社に官人日奉部年雄下向して祀を奉ずるという 【資3-442】
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8
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天平2年
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730
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西巣鴨正法院、行基が下谷が丘に建立したと伝えられる 【区史、1941】
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9
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天平13年3月
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741/3
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聖武天皇、恭仁宮において国分寺創建の詔を発布。武蔵国分寺(国分寺市字西元町)の文字瓦に豊島郡の郷として、日頭・白方・荒墓・吉嶋の4郷みえる 【通1-84~92】
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10
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天平勝宝7年
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755
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豊島郡の上丁椋椅部荒虫(くらはしべのあらむし)の妻宇遅部黒女(うじべのくろめ)が防人の歌「赤駒を山野に放し捕りかにて多摩の横山徒歩(かし)ゆか遣らむ」(万葉集巻20)を詠む 【通1-95】
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11
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神護景雲2年
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768
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武蔵国乗潴駅・豊島駅、東山道・東海道を承けて使命繁多であるから中路に準じて馬10疋を置くことを願い、勅許を得る 【通1-99~101】
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8世紀中期
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800
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東国豪族の主流が関東平野の開発によって山地や丘陵寄りの地域から関東平野中央部に移る。律令国家の蝦夷征討事業に積極的に参加し、国造・国司(員外)郡司などを歴任 【通1-104~11】
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13
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8世紀中頃
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800
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東国で「神火」と呼ばれる怪火がしきりに発生する 【通1-112】
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14
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8世紀
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800
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武蔵に檜前(ひのくま)・神崎という2つの官牧が存在。神崎牧は牛牧で所在地不明。檜前牧は馬牧で現在の浅草周辺(豊島郡内)とみられる 【通1-120】
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15
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弘仁1年
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810
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法明寺草創されるという(「吾妻鏡」の威光寺=法明寺説、金子直徳が言い出すか) 【櫨楓,資3-188】
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16
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弘仁9年
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818
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法明寺祖師堂を飛騨国の工匠が建てるという。弘治年中(1555~1558年)説もあり 【資3-188、423、643,櫨楓】
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17
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天長2年
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825
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西巣鴨善養寺、上野山内に慈覚大師の開基になるという 【区史、1941】
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18
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貞観3年11月16日
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861/11/16
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武蔵国郡ごとに検非違使1人を置く 【通1-117】
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19
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貞観年中
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877
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高田村氷川神社創立されると伝える 【高田村誌】
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20
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9世紀末
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900
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坂東で「東国の乱」と呼ばれる事件が勃発 【通1-117】
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21
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昌泰3年
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900
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武蔵国強盗蜂起す 【通1-119】
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22
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昌泰4年2月15日
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901/2/15
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諸社に奉幣して東国群盗の事を祈る 【通1-120】
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延長5年
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927
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「延喜兵部省式」より武蔵国豊島駅に駅馬10疋、伝馬5疋の配備知られる 【通1-98~9】
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24
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承平年間
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938
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「倭名類聚抄」に豊島郡の郷として、日頭(ひのと、文京区小日向辺)・占方(うらかた、神田駿河台辺)・荒墓(あらはか、台東区上野公園辺)・湯島(文京区本郷辺)・広岡(渋谷区広尾、板橋・練馬辺の両説)の5郷みえる 【通1-91】
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25
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天慶2年
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939
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平将門、常陸国府を襲撃、占拠し、「印鎰」を奪う。上野国府を襲い国司を追放。みずからを「新皇」と称す。下野国府を占領、下総国猿島郡石井郷に王城をかまえ8か国の国司を任命 【通1-122】
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26
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治安3年
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1023
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武蔵介藤原真枝が勅命に背き、平将常がそれを征伐し、その功により武蔵国豊島郡・下総国葛西郡・上総国埴生郡・駿河国益頭郡を賜わる 【通1-142】
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27
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保元1年
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1156
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豊島四郎、保元の乱に際し、源義朝軍に参陣 【資1-60,通1-143】
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28
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治承4年9月3日
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1180/9/3
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豊島清光に源頼朝の檄文が出される 【資1-57,通1-154】
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29
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治承4年10月2日
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1180/10/2
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源頼朝武蔵に入り、豊島清光・葛西清重父子隅田宿にこれを迎える 【資1-57,通1-157】
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30
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治承4年10月5日
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1180/10/5
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源頼朝の軍勢、今日の明治通りのあたりを通過し、武蔵府中にむかう 【通1-159】
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31
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養和年間
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1182
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南蔵院高田薬師、この頃奥州平泉の藤原秀衡の持仏と伝える 【資3-422】
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32
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元暦1年8月5日
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1184/8/5
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豊島朝経の二男豊島有経は紀伊国守護になっており、横暴を国司から訴えられる 【資1-33~34,通1-166】
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33
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文治1年夏
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1185
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豊島有経は源義経の指揮下に入っており、このころ義経の没落とともに紀伊国守護職を解任か 【通1-168】
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34
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文治5年7月19日
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1189/7/19
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豊島清光、源頼朝の奥州征伐の軍に加わる 【資1-59】
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35
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建久1年11月7日
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1190/11/7
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源頼朝上洛の供の中に豊島兵衛尉、豊島八郎、豊島権守らの名がみえる 【資1-59】
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36
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建久2年2月4日
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1191/2/4
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源頼朝の鶴岡八幡宮参詣の供として豊島兵衛尉の名がみえる 【資1-59】
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37
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建久2年10月2日
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1191/10/2
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豊島有経・紀伊国三上荘の地頭職もとりあげられる 【資1-58,通1-169】
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38
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健久6年3月10日
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1195/3/10
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源頼朝の東大寺行の供として豊島兵衛尉あり【資1-59】
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39
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11世紀末-12世紀初
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1200
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秩父氏の系列である畠山氏・江戸氏・河越氏・豊島氏・葛西氏らの同族により武蔵のほとんどの地が占められる 【通1-142】
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40
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建仁1年7月10日
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1201/7/10
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この日より以前豊島清光の嫡男豊島朝経、土佐国守護となる【資1-58,通1-162】
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建仁1年8月16日
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1201/8/16
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豊島康家死す【通1-151】
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建仁3年10月26日
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1203/10/26
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豊島朝経、比叡山延暦寺攻めにおいて戦死。朝経の嫡男豊島朝綱があとを継ぐ 【資1-58,通1-164】
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建保1年1月3日
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1213/1/3
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豊島小太郎・豊島又太郎、垸飯(おうばん)進物役人をつとめる 【資1-59】
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承久3年2月18日
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1221/2/18
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豊島清光死す 【通1-151】
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承久3年6月5日
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1221/6/5
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承久の乱に際し、豊島氏は北条時房の軍勢に加わり,この日墨俣に着く 【資1-58,通1-171】
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承久3年6月8日
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1221/6/8
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宇治川の戦いで、豊島九郎・豊島小太郎(重勝か)、豊島十郎ら活躍する 【資1-62~3,通1-171】
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47
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安貞2年7月23日
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1228/7/23
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豊島太郎、将軍頼経の供をする 【資1-59】
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仁治1年8月20日
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1240/8/20
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豊島小太郎、将軍頼経の供をする 【資1-59】
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49
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仁治2年4月25日
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1241/4/25
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豊島又太郎時光と大宮三郎盛員、武蔵国豊島庄犬食名のことで相論する。豊島庄の名の初見 【資1-59,通1-138】
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50
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建長3年1月20日
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1251/1/20
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豊島経泰、将軍藤原頼嗣の供をする 【資1-59】
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