江戸中期 としま

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No 年月日 西暦 としま(江戸中期) できごと
1 享保1年閏2月 1716/2 「高田村絵図」成る(巡見使へ提出) 【地図編上】
2 享保1年4月14日 1716/4/14 幕府中仙道を中山道に表記を改める 【駅肝録】
3 享保1年8月 1716/8 将軍徳川吉宗、鷹場を復活し、葛西・岩淵・戸田(含池袋・長崎・雑司が谷・巣鴨・新田堀之内の各村)・中野(含高田村)・目黒・品川の6筋に分ける 【通1-545~6】
4 享保1年12月 1716/12 巣鴨村水野出羽守屋敷境より板橋宿通り志村坂下まで、道普請につき、巣鴨村ほか6か村、人足の差出しを命じられる 【資3-9】
5 享保1年 1716 音田勘兵衛他9名、重林寺所在の庚申塔(青面金剛、道標南高田村・北板橋村)を建立 【豊島の庚申塔】
6 享保2年1月 1717/1 鳥見駄賃(江戸より)、高田本駄賃72文・軽尻48文、池袋79文・53文、駒込50文・34文、雑司が谷59文・38文、長崎村60文・48文 【資3-68~9】
7 享保2年8月14日 1717/8/14 御鷹部屋、本郷弓町より雑司が谷・千駄木の2か所へ移転し、これに関与した小普請方、今日時服をたまわる 【資3-132】
8 享保2年10月 1717/10 江川四郎兵衛他8人、重林寺所在の庚申塔(三猿)を造立 【豊島の庚申塔】
9 享保2年 1717 人見石見守藤原吉次、雑司が谷鬼子母神堂に神鏡を寄進する 【豊島あちらこちら】
10 享保3年7月 1718/7 法明寺、表門のあとへ二王門引直す 【櫨楓】
11 享保3年12月5日 1718/12/5 昼未の上刻、小石川伝通院後、馬持長右衛門の家より出火。駒込・千駄木・染井・谷中・田端村焼ける 【資3-677】
12 享保3年 1718 鳥見役宅、志村(戸田筋)・高円寺村(中野筋)などに設置される 【通1-547】
13 享保4年1月 1719/1 雑司が谷中西刑部屋敷(成立不明)の東側半分御鷹方役屋敷となる 【資3-279】
14 享保4年1月 1719/1 雑司が谷村の水野主膳・坂原作左衛門両人抱屋敷(成立不明)、御鷹部屋となる 【資3-279、437】
15 享保4年4月24日 1719/4/24 雑司が谷御鷹部屋近辺で出火したさいには、駈付町人足を20人ずつとする 【資3-110】
16 享保4年9月 1719/9 伝通院領雑司が谷村の内、雑司が谷御鷹部屋道敷分上地となる 【資2-42】
17 享保4年 1719 伊藤伊兵衛政武著『広益地錦抄』8巻8冊刊行 【国書総目録】
18 享保4年 1719 この頃藤堂大学頭庭園の遊興さかん 【資3-501】
19 享保5年6月16日 1720/6/16 本能寺住持日彦ら、奉公人殺害につき逮捕される 【資3-218、409~10】
20 享保5年7月17日 1720/7/17 千駄が谷塩硝蔵および雑司が谷御鷹部屋・千駄木御鷹部屋の近所で火災のあるときは、消防の指揮をすべき旨を目付に命ずる 【資3-132】
21 享保5年8月11日 1720/8/11 将軍徳川吉宗、雑司が谷・王子で狩 【資3-672】
22 享保5年9月 1720/9 東長崎5-11所在の庚申塔(青面金剛)造立される 【通1-818】
23 享保5年9月 1720/9 染井伊藤伊兵衛、吹上御所の桜苗木を飛鳥山に移植する 【川添登・東京の原風景】
24 享保5年10月15日 1720/10/15 要町3-23所在の普美地蔵建立される 【豊島あちらこちら】
25 享保6年3月4日 1721/3/4 巳の刻牛込より出火。小日向・大塚、小石川、本郷、駒込、谷中の辺一帯焼ける。染井の松平加賀守下屋敷・藤堂和泉守下屋敷焼失 【資3-677~8】
26 享保6年7月18日 1721/7/18 将軍徳川吉宗、雑司が谷で狩 【資3-672】
27 享保6年閏7月19日 1721/7/19 将軍徳川吉宗、雑司が谷で放鷹 【資3-672】
28 享保6年8月11日 1721/8/11 将軍徳川吉宗、雑司が谷・滝野川で狩。雑司が谷御鷹部屋で小休 【資3-672】
29 享保6年9月 1721/9 関口台町目白不動尊長谷寺の碑(現金乗院山門前所在)、造立される 【豊島あちらこちら】
30 享保6年9月 1721/9 池袋村64人講中、四面塔を建立する 【豊島あちらこちら】
31 享保6年10月5日 1721/10/5 雑司が谷御鷹部屋辺出火のさい、以降200人ずつの駈付村人足とする 【資3-110】
32 享保6年10月 1721/10 長崎村荒井久太郎他22名、高松2-4所在の庚申塔(青面金剛)を造立 【豊島の庚申塔】
33 享保6年11月 1721/11 長崎村木村善右衛門知行所高反別、7町5反3畝7歩、36石2斗3升4合 【資1-115】
34 享保6年 1721 巣鴨松平播磨守下屋敷成立(のち1756・宝暦6年11月大久保山城守下屋敷と2屋敷になり、また1816・文化13年2月もとに戻る) 【資3-256】
35 享保6年 1721 長崎村木村善右衛門知行所、名主助右衛門、組頭三郎左衛門・忠左衛門 【資1-125】
36 享保7年1月16日 1722/1/16 鬼子母神氏子、歩射祭礼の座順を改める 【資3-635,櫨楓】
37 享保7年2月 1722/2 染井伊藤伊兵衛、王子金輪寺山内の紅葉10本を飛鳥山・滝野川堤上に植える 【東京の原風景】
38 享保7年4月20日 1722/4/20 染井花屋十兵衛庭に金色の珍花咲く。花図板行され世間に流布。のち、土あけびという草の葉をむしりとったものであることが判明し、十兵衛お叱りのうえ閉門を命じられる 【月堂見聞集,享保世話】
39 享保7年6月6日 1722/6/6 法明寺22世日相聖人没 【櫨楓】
40 享保7年10月 1722/10 千川上水廃止され、以後農業用水となる。室鳩巣の建言によるという 【資2-680,資3-132、152、433、691】
41 享保7年 1722 伊藤伊兵衛『草花名寄』刊行 【実際園芸第17巻=1934年9月号】
42 享保7年 1722 菊岡沾涼『江戸砂子』刊行。染井つつじの記事あり 【東京の原風景】
43 享保7年 1722 高田村ほか、千駄が谷塩硝蔵駆付人足命じられる 【資2-453】
44 享保8年8月10日 1723/8/10 本庄筋、深川浅草筋、染井、豊島、板橋、王子辺洪水。床上1~2尺の浸水 【資3-679】
45 享保8年8月13日 1723/8/13 将軍徳川吉宗、雑司が谷、染井で狩。染井伊兵衛にて小休 【資3-672】
46 享保8年8月 1723/8 鬼子母神御宝前常燈(左)、造立される。銘「天地長久、国家安全」 【豊島あちらこちら】
47 享保8年8月 1723/8 三光稲荷社(遠沽院)、大行院累世の隠居所となる 【櫨楓】
48 享保8年9月21日 1723/9/21 将軍徳川吉宗、雑司が谷で放鷹 【資3-672】
49 享保9年閏4月5日 1724/4/5 未刻過、小日向茗荷谷徳恩寺出火。巣鴨迄焼失 【資3-679】
50 享保9年5月20日 1724/5/20 深川松賀町に捨馬あり。巣鴨村文左衛門世話で、同村次郎兵衛金3分でもらい受ける 【資3-72】
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