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平成とぴっくす

豊島区の平成史を彩る様々な出来事を現場レポート

安全・安心まちづくり

『監視のルール』 ~池袋本町オウム対策協議会

小野 温代

(平成11年 広報課長)
関連キーワード:オウム真理教対策
池袋本町オウム対策協議会「『NO!オウム真理教』豊島区民大会」(平成11年8月25日)
池袋本町オウム対策協議会「『NO!オウム真理教』豊島区民大会」(平成11年8月25日)

1 平成10年夏、オウムが道場開き

地下鉄サリン事件をはじめ、多くの事件を引き起こしたオウム真理教―かつてこの教団が豊島区内に道場を開こうとしたことがあった。
広報課長に就任して一ヵ月、私はまさにこの問題の最大の山場となる長く熱い一日を経験する。そしてその日からオウム真理教信者全員が退去する日まで、広報課長として、また区役所内につくられたオウム真理教対策本部の一員として、区の対応や街の人々の苦悩と闘いを見てきた。それはどれも私の想像を超えて厳しくもあり、優しくもあった。
オウム真理教に対しては、現在でも多くの人が許しがたい思いを持っている。まして当時は、地下鉄サリン事件を起こしてからわずか3年、すでにほとんどの幹部が逮捕されていたにもかかわらず、一切の謝罪を拒否していたオウム真理教に対して、人々は今以上に強い憤りと不安、疑念を抱いていた。そして同時に、まさか自分たちの暮らす街にオウム真理教の信者が現れるとは、だれも想像していなかったのである。
発端は、平成10年7月に自然食品販売と称してオウム教団がマンションを借り上げ、数人の信者が住み始めたことだった。
問題となったその場所は池袋本町4丁目の踏切に程近いマンションの1階で、周辺は子どもやお年寄りも多い人情味豊かな昔からの住宅街である。
初めはわずかだった信者は次第に増え、20人近くが住みだした。ひと月程経った8月、突然200人もの信者が集まり、道場開きが行われたという。
驚いた住民たちは直ちに町会やマンション管理組合が中心となって対策組織をつくり、対応を協議した。
その頃、オウム教団の関連施設は全国にあり、テレビや新聞では周辺の住民たちが不安を訴え、施設の撤去を求める様子がたびたび報道されていた。時にはかなり激しいやり取りの場面なども映し出されていた。
しかし、豊島区の場合は、早い段階から不測の事態が起こらないよう話し合われていたという。地元の町会長でもあった名取芳治池袋本町オウム対策協議会会長は、後に、
「オウムと言ったって同じ日本人同士なんだから、われわれは暴力的なことはしないで『話し合い』で行こうと決めていたんです。」と、取材に来た新聞記者に語っている。
実際、私も街の男性から「出てってもらいたいよ。だからと言って乱暴なことは良くない。そんなことしたって解決にはならないもの。」と言われ、その冷静さに感心したことを覚えている。
池袋本町オウム対策協議会の人たちは、当初からこうした姿勢で教団側に話し合いを求め、粘り強く退去を要求する活動を続けた。周辺の町会にも協力を呼びかけて活動を広げ、また区や区議会に請願書を提出し支援を要請した。
しかし、信者が退去する気配はどこにもなかった。

2 激震、オウム教団中枢が池袋に移転を発表

そうした活動が1年近く続き、オウム対策協議会はやむなく裁判を起こすことを視野に入れて、その準備を開始した。区もその裁判費用として380万円を貸与することを決めた。
そんな矢先、事態は急変する。
平成11年9月29日夜、オウム教団が突然、足立区にあった「広報部」と「法務部」を豊島区の道場に移転する、と発表したのだ。それはオウム真理教の中枢機能が池袋本町に置かれることを意味した。
豊島区に激震が走った。
翌朝、区役所では直ちにオウム真理教対策本部が開かれ、本部長である区長から、「区民の安全を第一に、区としてできうる限りの対応を取る。緊張感をもって事に当たるように」と檄が飛ばされた。
池袋本町でも朝7時から住民が集まり、道場のあるマンションの前に「オウム侵入禁止」の看板を設置した。さらに机やロープでバリケードを作り、マンションの入り口を封鎖するとともに、向かい側にテントを張って交代で見張りをすることにした。
正午過ぎ、区長と議長が現地に入る。
マンション周辺には、みるみるうちに200人もの住民が集まった。頭には「オウムは出て行け」と書いた鉢巻きをして一様に緊張した面持ちでいる。不安な気持ちを押さえきれずに小声で話す人。心配そうに辺りを見回す人。みな落ち着かない。
マスコミ関係者も50人を超え、道路の両側にはカメラやマイク、撮影用のライトがひしめくように並んだ。空にはヘリコプターが飛んだ。
暑かった。9月の終わりというのに、気温は30度を超えていた。いつも見慣れた街が、この日は別世界のように思えた。
時間が経つにつれ、住民はさらに増えて300人ほどに膨れ上がり、マスコミ関係者も100人以上に達した。
夕刻、荒木広報副部長が来たという情報が入ると、マンション周辺はさらに緊張が高まり、一気に緊迫した空気が広がった。町会の役員が白線から出ないように声を張り上げるが、過熱気味になった空気は下がらない。
午後6時過ぎ、オウム教団の荒木広報副部長がもう一人を連れてやってきた。
すでに辺りは暗くなっていたが、荒木らが歩いてくる道は煌々とライトに照らされ、まるで映画の一シーンのようだった。これがあのオウムかと思うほど、二人は華奢で頼りなかった。
だが、二人を目にした住民たちは一斉に「帰れ!帰れ!」と叫び始める。
道路の中央には、すでに名取オウム対策協議会会長、高野区長、熊崎議長が立ちはだかり、険しい形相で荒木広報副部長を待ち構える。近づいてきた荒木に向かって抗議文を読み上げ、退去するよう迫ると、なおも進もうとする荒木を大勢のカメラやマイクが押し寄せるように取り囲んだ。怒号が飛び交い、辺りは大混乱になった。
すぐに危険と判断した警察官が割って入り、荒木らを駅の方に誘導した。
しかし、集まった住民たちは不安を拭い去ることができず、しばらくその場を離れなかった。荒木らが切符を買い、駅の中に入ったという情報が入ると、ようやく安堵し、互いに肩をたたきながら帰路についた。

区におけるオウム真理教対策発表(平成11年8月25日)
区におけるオウム真理教対策発表(平成11年8月25日)
マンション入口を封鎖(平成11年9月30日)
マンション入口を封鎖(平成11年9月30日)
マンション前に集まる住民たち(平成11年9月30日)
マンション前に集まる住民たち(平成11年9月30日)
マンション向かいに監視テントを設置(平成11年9月30日)
マンション向かいに監視テントを設置(平成11年9月30日)

3 「24時間態勢監視活動」開始

この日ことを、名取会長はこう言っていたという。
「われわれは、何があるかわからないから、集まった人たちは道路にある白線より中に踏み込まないことにしようと、事前に決めてたんです。オウムはたった二人なのにマスコミはどんどん来る。だから大混乱になってしまって。夕方だったんでお酒が入った住民もいましてね。そうするとどうしても声が大きくなる。これはいけない、と思いましたよ。」
不安と拒否の感情が渦巻き、一気に興奮が高まれば、どんな事態になるかわからない―名取会長がそう心配するほど、この日はぎりぎりの回避だった。
しかしこの反省をもとに、その後、池袋本町オウム対策協議会は最後まで不要なトラブルを避け、一日も休まず運動を続けていくことになる。
それは早速、この9月30日当日の夜から始まった。
マンション前のテントでの「24時間態勢の監視活動」である。
監視活動には周囲の8町会も協力した。午前8時から午後10時まで2時間ごとに8町会が交代で当たり、その後の午後10時から翌朝午前8時までを地元町会とオウム対策協議会が当たった。区役所からも日中は職員を出し、幹部職員は業務終了後の午後6時から10時までと土曜日曜の昼間の時間帯に交代で監視活動を支援した。私はそれに加え、マスコミへの対応と街の人たちの声を聞くために、毎日テントに顔を出した。

抗議文を読み上げる名取会長(平成11年9月30日)
抗議文を読み上げる名取会長(平成11年9月30日)
抗議する区長(平成11年9月30日)
抗議する区長(平成11年9月30日)

4 『監視のルール』が “連帯の証”に

「24時間の監視活動」が始まって数日後、テントの中に『監視活動の基本的なルール』という用紙が張り出されているのに気が付いた。長テーブルの上にも配布用が置いてある。
見ると、
「私どもの目的は、あくまでオウムを一日も早く退去させることである。その運動はあくまでも良識ある秩序を守り、統一したルールのもとに行動していくことである。」
と趣旨が述べられ、その下に3つの基本的ルールが書かれていた。
一 オウムといえども基本的人権があり、住民運動といえども、秩序ある行動と言動で接する。説得が基本である。
一 本部に責任者を置き、すべてその元で対応する。
一 騒音、言動には最大の配慮をし、そのためにアルコールの入った人は参加しないようにお願いする。
それはまだオウム教団の中枢移転を阻止してから間もない頃で、テント周辺にはあの時の熱のような空気が残っていた。それにもかかわらず、オウム対策協議会の人たちは冷静に自分たちの活動をコントロールしようとしていた。
その日、当番だった男性に、
「『基本的人権』とはすごいですね。」
と言うと、ちょっと笑いながら、
「当たり前のことだよ。話せばみんなまじめな若者なんだ。もちろん裁判のこともあるけど、大人がちゃんと当たり前のことをして見せるのが大事なんだ。」
と事もなげに言う。
私はうなずきながらも頭の中には先日の混乱がよぎり、そうは言っても活動が長くなれば一杯呑んで来る人もいるだろうし、腹立ちまぎれに乱暴な言葉を投げる人もいるだろうと、半信半疑で聞き流した。
それからしばらく経って、別の当番の男性に酔っぱらった人は来ないかと尋ねると、
「前は来たこともあったけど、説得して帰ってもらった。夕飯の時に飲んじゃって、でも気になったからって激励に来たという人もいたけど、こういうルールだからって帰ってもらったよ。だから今はもう、駅前で飲んだ帰りにテントの前を通っても、『冷ましてから来るよ』って言って、みんな家に帰るさ。」と笑う。
意外にも私の予想とはちがい、『監視のルール』はさしたる抵抗にも遭わず、むしろ“連帯の証”として受け入れられているように見えた。『監視のルール』が街を一つにしているようだった。
ある時、信者と話をしている女性を見かけた。
だんだん顔見知りになり、信者とも挨拶を交わすようになったという。
「出かけるときは『行ってらっしゃい』って声をかけるのよ。返事はあったりなかったり。でもそのうち、顔色が悪かったり、痩せてる姿を見たりすると、つい、ご飯食べてるの?体に気をつけてね、なんて言っちゃうのよね。」
と話してくれた。
名取会長も、
「オウムと言っても一人一人はとてもまじめで、挨拶もしたし、冗談なんか言ったりもした。修行のときは真剣で、むしろ感心したくらいだ。多分、外からの情報が全部遮断されていて、ただ上からの指示で動いているだけなのだと思う。私は昔、軍隊にいて、情報が一切入らない状況の中で、来る日も来る日も厳しい訓練を受けていた。その頃は軍国主義を信じ込んでいたんだ。あの若者たちを見ていると、その頃の自分と重なってしまう。」
と語っていたそうだ。

監視テント前に集まる住民たち
監視テント前に集まる住民たち
監視活動の基本的なルール
監視活動の基本的なルール
『NO!オウム真理教』豊島区民大会、1,000名を超える区民が結集(平成11年10月24日)
『NO!オウム真理教』豊島区民大会、1,000名を超える区民が結集(平成11年10月24日)
オウム真理教対策を法務大臣に要請(平成11年11月26日)
オウム真理教対策を法務大臣に要請(平成11年11月26日)

5 オウム真理教信者がマンションから完全撤去

「24時間の監視活動」はひと月を超えた。10月初めは30度近い日もあったが、ひと月後には20度を切るようになり、11月に入ると夜の気温は一桁になった。雨が降る日もあった。雷が鳴るような大雨の時もあった。テントをビニールシートで囲い、ストーブを入れて暖をとるようになった。秋の日はどんどん短くなっていった。それでも「24時間の監視活動」は休むことなく続けられた。
その間には区民大会が開かれ、さらに9万人もの署名を添えて国に対策を要請した。
そして11月10日、オウム真理者の退去を求めてマンション管理組合が訴えていた「占有移転禁止の仮処分」が、ようやく東京地裁に認められた。
その決定に基づき、所定の手続きを経た後、ついにオウム真理教信者がマンションから完全撤去する日がやってきた。
11月30日、午後1時過ぎ、マンションの所有者、名取芳治池袋本町オウム対策協議会会長、マンション管理組合役員ら4人が室内に入り、内部を確認した後、男性信者から鍵を受け取ったという。
名取会長たちがマンションから出てくると、待ち構えていた人たちは涙ながらに握手をして喜んだ。
名取会長は集まった新聞記者たちに、
「みんなの力でオウム退去が実現できました。今まで長かったが、ほっとした。だがオウムも同じ日本人だけに複雑な気持ちです。この2か月間で信者と話し合ったこともあり、彼らも同じ人間だということを感じた。信者には『早く一般の住民と一緒に普通の生活ができるようにしなさい』と伝えました。」
と話したという。
62日間にわたる「24時間の監視活動」は延べ1万数千人が参加し、新たな信者の転入は一人たりとも許すことはなかった。
この池袋本町オウム対策協議会の『監視のルール』は、その後、何度かマスコミに取り上げられた。不安と憤りを抱えながらも同じ人間、同じ日本人として良識ある姿勢で臨み、話し合いと説得に徹することを明確に定めたルールはあまりないからだ。
しかもそのルールは特定の人が決めたというより、池袋本町の人々が共通して持っている考えであり、この街の人々の気持ちに沿ったものだ。そのことは私が接した人たちからも十分に伝わってきていた。それはおそらく、この池袋本町の人々が持つ『人間愛』ともいうべき人への優しさ、温かさなのだろう。
オウム真理教教団が豊島区に来ることはもう二度とないだろう。
だが、あのマンションでこの街の人々に接した彼らが、その後、人としてもう一度、自らの生き方を見つめ直してくれていることを心から願う。

オウム教団退去(平成11年11月30日)
オウム教団退去(平成11年11月30日)
監視活動終了、テントを撤去(平成11年11月30日)
監視活動終了、テントを撤去(平成11年11月30日)
関連キーワード:オウム真理教対策

関連年表

平成10年 7月 オウム教団が池袋本町のマンションを借り上げ、信者数人が住み始める
8月9日 信者約200人が集まり道場開き(新東京本部道場)
これを受け、地元町会やマンション管理組合を中心に「池袋本町四町目環境浄化推進協議会」(11年6月「池袋本町オウム対策協議会」に改称)を設立
10月1日 庁内組織「池袋本町四町目マンション問題対策プロジェクトチーム」(11年7月「豊島区オウム真理教対策プロジェクトチームに改称)を設置
平成11年 7月 マンション管理組合臨時総会において、組合が原告になり、教団の退去を求める裁判を提起することを議決
8月25日 「池袋本町オウム対策協議会」に対し、当面の裁判費用を貸与。
教団本部の足立区内施設からの退去が決まったことを受け、区における今後の対策として、①オウム信者の新規転入者受入れ拒否、②区施設の利用制限、③区内不動産業者への要請等を決定
9月29日 オウム教団記者会見、対外活動を休止する一方、教団の中枢機能(広報部・法務部)を足立区から豊島区池袋本町へ移転する旨発表
同日深夜、区長、幹部職員を招集し緊急危機管理会議開催
10月24日 池袋本町オウム対策協議会「『NO!オウム真理教』豊島区民大会」開催、区立池袋中学校体育館に1000名を超える区民が結集
10月26日 区長、区議会議長、対策協議会会長、町会連合会会長らがオウム真理教対策について国へ要請
11月10日 「マンション管理組合による申請に基づき、新東京本部道場」において占有移転禁止の仮処分執行
11月30日 オウム教団、新東京本部道場から退去
住民による監視活動終了

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