豊島区の平成史を彩る様々な出来事を現場レポート
私が見た「池袋場外車券売場問題」
小野 温代
(平成12~13年 広報課長/14~15年 政策経営部長/16~18年 区民部長/19年 総務部長)1 平成不況が生んだ「場外車券売場」誘致
暑い夏の日の午後だったように思う。
私の席の電話が鳴った。声の主は坪田キネ子さん。戦後すぐに働く親たちのために「ポストの数ほど保育園を!」と運動し、その後もさまざまな地域活動に取り組んできた婦人団体協議会の会長である。
「『場外馬券売場』ができるって言う人がいるけど、また復活したの?」
体調を崩してはいたが、声に力がある。
池袋にはかつて競馬の馬券を売る「場外馬券売場」を建設する話があり、島田美恵子さんら住民の強い反対で中止になった。それが復活したのではないかと心配して掛けてきたのだ。
当時、広報課長だった私は、少し戸惑いながら「『馬券』の話はないです。」と答えた。するとすかさず、「じゃあ、何?」と迫る。とうとう、「『馬券』じゃなくて『車券』です。でもまだ噂ですから。」と言わざるを得なくなった。
平成12年、バブル経済が崩壊して「失われた十年」と呼ばれた不況は9年目を迎えていた。景気は一向に回復せず、池袋の街は以前にも増して新宿、渋谷に水を開けられていた。区の財政も底を突き、赤字団体に転落しそうなところにまで来ていた。
その年、池袋に計画されていたのは、競輪とオートレースの両方の車券を売る全国で初めての場外車券売場だった。池袋駅東口の目と鼻の先に、1日5,000人の来場者を見込んで7階建てのビルを建設するという。来る人の9割以上は男性で、後で聞くと高齢化も進んでいるらしい。
豊島区にも地元自治体として売上げの1%が分配される仕組みになっていた。それは財政破綻寸前の区にとっては喉から手が出るほど欲しい金だった。
最初に反対の声を上げたのは女性たちだった。坪田さんらが区議会へ陳情書を提出し、すぐに他の女性グループや子育てグループが続いた。
彼女たちは、「建設予定地の裏には風俗店が多く、そうした場所にこれ以上大勢の男性達が勝った!負けた!と押し寄せるのはたまらない。池袋には学校が多く、遊びに来る子どもたちも多い。女性や子どもが歩けない街にするのは反対だ。」と口を揃える。
PTAや青少年育成委員会、保護司会も反対の声を上げた。
これに対して賛成者は、場外車券売場には警備員が常駐し、清掃も行き届く。街は賑わい、環境も良くなるから心配ない、と主張した。
2 熱い議論の末、区議会が反対請願陳情を採択
突然降ってきたこの事態に、区も区議会も困惑した。
場外車券売場ができれば区の財政は多少潤うかもしれないが、反対者が相当数いることも容易に想像がついた。区民を二つに割るようなことはしたくないと、区長は何度も口にしたが、でもそれは難しい話だった。
区は法律上、場外車券売場設置に関して特に判断が求められているわけではなかったが、どんよりした空気が庁舎を覆っていた。
その年の区議会には設置に賛成の陳情7本、反対の請願4本と陳情25本が提出された。審議の日には毎回100人もの傍聴者が集まり、総務委員会室に入り切れないほどだった。議員の一挙手一投足に注目し、固唾を飲んでその発言に耳を傾けた。議論は熱を帯び、手に汗握る大激論になった。
報道関係者も10人近く入り、NHKは結論の出る瞬間を捉えようとテレビカメラまで持ち込んだ。
だが、請願陳情はすべて閉会中の継続審査となり、傍聴に来ていた人たちからは溜息がもれた。
区議会は閉会した。
ほどなくして再び総務委員会が開かれた。オートレースを開催する川口市の公営競技事務所長を呼んで主催者側の意見を訊き、また激しい議論がたたかわされた。年末の寒い時期にもかかわらず、傍聴者は相変わらず委員会室に溢れ、心配そうに審議の行方を見守った。
総務委員会は数日間開かれ、12月25日、ついに結論を出すことになった。
白熱していた議論が止み、委員長が採決を宣言すると、傍聴者たちは息を呑み、背筋を伸ばすようにして議員らの様子を伺った。挙手による採決が行われ、賛成の陳情はすべて不採択となり、反対の請願陳情がすべて採択となった。
区議会は事実上「設置反対」の立場に立ったのである。
傍聴者たちから一斉に満面の笑みがこぼれ、委員会室には安堵感が広がった。
その時、区長がおもむろに手を挙げて立ち上がった。そして、
「ただいまの総務委員会の決定を受け、私は区民全体の利益を守る立場から、駅前の建設予定地に場外車券売場を設置することは、まちづくりや環境浄化など様々な観点から問題があると判断した。」と発言し、反対を表明したのだ。サプライズだった。
折しもその日はクリスマス。詰めかけた傍聴者たちは、「大きなプレゼントだ!」と歓声を上げた。
事態はこれで鎮静化するものと思われた。
区は、国が場外車券売場設置の可否を判断する際には必ず自治体の意向を配慮するものと考えていた。豊島区の反対の意向も同様に配慮されるはずだと。
3 池袋場外車券売場設置許可申請が受理され事態は急変
ところが、それから1年半後の平成14年6月11日、経済産業省関東経済産業局が、池袋場外車券売場の設置許可申請を受理したという情報が飛び込んできた。
すぐに、さいたま新都心にある関東経済産業局に走った。受理は事実だった。
直ちに対策本部が開かれ、6月24日に公会堂で「緊急区民大会」を開催することが決定された。
わずかな準備期間にもかかわらず、この「緊急区民大会」には区内全域から1000人を超す区民が鉢巻き姿で駆けつけ、一様に厳しい表情で反対を訴えた。
またその2日後には、区議会が「設置者は区民の理解を得られるまで場外券売場を設置してはならない」とする『改正生活安全条例案』を、なんと、たった一日で可決してしまった。翌朝の新聞には「豊島区“速攻”一夜にして規制条例」という文字が躍った。
さらに区はその意思を広く知らせようと、明治通りを挟んで建つ区役所本庁舎(旧)と別館のそれぞれに「池袋場外車券売場設置断固反対」と書いた懸垂幕を掲げた。
また街では、池袋東口環境浄化推進委員会が池袋東口一帯の歩道の上に「設置絶対阻止」のバナーフラッグをはためかせ、駅前広場では池袋場外車券売り場設置反対連絡協議会が集会を繰り返した。
池袋の街全体が「NO!場外車券売場」を突きつけた。
区も区民もそれぞれができることを精一杯やった。
だが事態は硬直したままだった。
この池袋の場外車券売場問題については、実にたくさんの記事が新聞に掲載された。
最初に記事にしたのは毎日新聞で、平成12年9月頃だったか、建設計画の概要が小さく載った。書いたのは私の知らない記者だったが、その記事がきっかけで各社から問い合わせがくるようになった。記者たちは公平に取材を重ねたと思うが、記事は概ね反対派の考えに添ったものだった。
だが記者の中にも賛成者がいて、日経新聞の若い記者は自身がギャンブル好きなので、「いいじゃないですか」と言っていたが、デスクに直されたのか、掲載された記事は彼の考えとは少し違っていた。
場外車券売場の設置許可には「地域の理解」を得ることが要件とされていた。その「地域」がどこを指すのかは必ずしも明確ではなかったが、建設予定地とその周辺の5つの町会が該当すると言われていた。
しかしこの5町会の意向はなかなかつかめなかった。町会側から話でもない限り、区の方から踏み込んで聞くことはためらわれた。賛成派が「5町会は賛成している。同意書がある」と豪語していたので、それを信じるよりほかはなかった。
ところが朝日新聞の女性記者が、「反対している町会がある」とスクープしたのだ。この記事は同意書の不明瞭さも鋭く突いていた。地域を回り、丁寧に取材を重ねた結果だ。
読売新聞もそれに続いた。二つの記事は反対派を勇気付けた。
4 経産相に設置不許可を直接要請
平成14年7月5日、「緊急区民大会」の結果を持って経済産業省に行くことになった。
その前日、取材に来た記者にそのことを話すと、大臣に会うのかと問われた。その可能性は低かったのでそう伝えると、翌朝の定例会見で、「今日、豊島区長が来ることになっているが、池袋の車券売場問題について、どうお考えか」と、彼の友人の記者が大臣に質問してくれたらしい。それに対して大臣は、「会って話を聞く」と答えてくださった。当初、大臣には面会の予定は入ってなかったそうだが、急にお会いできることになった。体操で言えば、滅多に成功しないG難度級の技だ。
その上、問い合わせてきたNHKの記者に大臣要請のことを伝えると、なんと大臣室の前にテレビカメラが待っていた。自治体から国への要請件数はかなりあるので、通常NHKが報道することはない。だが、その日の夕方の首都圏ニュースでは大臣室に入る区長や議長の姿がしっかり放送された。
あの日は幸運が重なった。「豊島区の日」だった。
経済産業大臣には平沼赳夫大臣、中川昭一大臣、二階俊博大臣と三代に亘り計6回も要請した。最初は区長と区議会から議長、副議長、会派の幹事長というメンバーだったが、それ以降は反対を表明している区内のさまざまな団体に参加してもらった。大臣秘書室にはいつも人数が多過ぎると言われたが、それでも減らすことはほとんどなかった。
初めての大臣要請の席で、平沼赳夫大臣が「では区長はどういう街を創ろうとしているのですか。」と問われた。高野区長がなんと答えたかは覚えていないが、この一言が、豊島区のまちづくりを大きく変えることになった。
この年、平成14年はちょうど区制施行70周年に当たっていた。
そこで区は、これを機会に「文化」をトップ政策に掲げた。軸足を「文化」に移したというより、「文化」を主軸にしたのだ。それは多様性を認めながらより良いものを目指す「文化」のエネルギーが、きっと街を輝かせる、そう信じての決断だった。「文化」のエネルギーが広がれば、あの場外車券売場のような発想は生まれない―それは、あの平沼大臣の「どんな街づくりをするのか」という問いに対する高野区長に答えでもあった。
5 設置計画、事実上の撤退
平成17年になって、ようやく土地所有者の籏保全株式会社との面会が叶った。
意外にも現れた常務は好々爺然とした人物で、部屋に入るなり、「区などあらゆる関係者を巻き込んでしまった。事が大きくなり、びっくりしている。」と申し訳なさそうに切り出した。そして「私どもは土地を利用させるだけだったが、計画段階からすでに7年。あの土地をいつまでも遊ばせておくことはできない。かと言って、うちだけが簡単に辞めるというわけにもいかない。」と苦悩を滲ませた。
やっと最後に「どのように収束するかは別として、車券場の方向はないと考えている。」との言葉をもらった。天にも昇る思いだった。
それから数ヶ月して、ヤマダ電機の出店計画が発表された。予想もしていなかった。新聞には「池袋は電気街になった」と大きな記事が掲載された。
とうとう最後まで事業者は申請を取り下げなかったし、経済産業省も、結局不許可にしなかった。だが、池袋場外車券売場の設置は実質的になくなった。
平成19年3月30日、区は区民とともに区の庁舎に掲げていた懸垂幕を撤去した。場外車券売場計画が明らかになってから、実に6年8か月に亘る闘いだった。
6 反対運動を支えた女性たちの勇気
あの日、坪田さんから電話がなかったら、女性たちが区議会へ陳情書を出さなかったら、池袋の街はどうなっていただろう。
坪田さんは私への電話の後、すぐに自主グループ連絡会の磻田洋子さんに相談したという。そして瞬く間に女性たちのネットワークが動き出し、署名を集め、区議会への請願や陳情に繋がった。
そればかりか、彼女たちは建設予定地周辺のホテルやマンション、学校、塾、飲食店、パチンコ屋、風俗店までも一軒一軒訪ね歩き、アンケートを取った。計画を知っている人もいれば、初めて聞いたと驚く人もいた。署名に協力してくれる店もあったが、疎まれ、門前払いをされることもあったという。
それでも活動を続けた彼女たちの強い気持ちが、この街の中でひっそりと進められていた「場外車券売場問題」の扉を叩くことになった。
あの日から続く、長い道のり―先の見えない状況の中で、常に活動の場に立ち続けたのは磻田洋子さんだった。いつも温かな眼差しで、高齢の坪田さんの分まで走り回った。区議会の傍聴席にも、集会の場にも、必ず彼女の姿があった。競技開催市の川口市へ請願を出したのも彼女だった。
経済産業大臣へ要請の日、ドシャ降りの雨が降っていたことがあった。普通なら出掛けるのを諦めてしまうほどのひどい雨だった。その中を磻田さんは雨合羽に身を包み、オートバイに乗って大臣室に駆け付けた。雨粒を拭いながら、恥ずかしそうに現れた彼女の姿には街への思いが溢れていた。
これには区長も驚き、感嘆した。平沼大臣も思わず、「この雨の中をオートバイで?それは本当にご苦労様でしたね。」と、心打たれた様子でねぎらった。
穏やかに微笑みながら、彼女はこう言ったことがある。
「私は池袋が大好きなんですね。とても好きなんです。だから池袋を大事にしてほしいんです。大切にしてほしいんです。」まるで祈るような言い方だった。
彼女が走り続けた7年間の活動の日々は、反対運動最後の日となった区庁舎の懸垂幕撤去式に、奇しくも1000日目を数えたという。
振り返れば多くの人の顔が浮かぶ。多くの人と過ごした時間が甦る。
池袋場外車券売場問題は本当に長く苦しい闘いだった。
幸いにも、区民の力と、区・区議会の知恵で度重なる危機を乗り越えてきた。
力を合わせることの価値や喜びも分かち合った。対立は何も生み出さないことも学んだ。まちがひとつになるエネルギーの大きさも知った。池袋場外車券売場問題は豊島区にとって大きな試練だった。
この試練を乗り越えて、豊島区はこれからも区民とともにみんなで大きな夢を描き、それを一つずつ実現していくにちがいない。
だがそれは、勇気ある女性たちが一心に池袋を守ったからであることを忘れないでほしい。
関連年表
平成12年 | 7月 | 池袋場外車券売場設置計画が明らかになる |
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12月25 | 区議会総務委員会で設置反対の請願・陳情採択 区長、設置反対を正式表明 |
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平成14年 | 6月11日 | 経産省関東経済産業局、設置許可申請を受理 |
6月24日 | 池袋場外車券売場設置反対「緊急区民大会」開催 | |
6月26日 | 「設置規制を盛り込んだ改正生活安全条例案を区議会に提出、直ちに可決、即日公布 | |
7月5日 | 平沼赳夫経済産業大臣に設置不許可を直接要請 | |
7月29日 | 「池袋東口場外車券売場設置反対連絡協議会」結成 | |
9月14日 | 池袋東口環境浄化推進委員会が「設置絶対阻止」のバナーフラッグ掲出 | |
9月19日 | 「区庁舎に「池袋場外車券売場設置断固反対」の懸垂幕掲出 | |
11月25日 | 設置反対連絡協議会、「池袋場外車券売り場設置問題を考える」シンポジウム開催 | |
平成15年 | 2月25日 | 平沼赳夫経済産業大臣、西川太一郎同副大臣に設置不許可を直接要請(大臣要請は2回目) |
5月8日 | 池袋場外車券売場設置計画の地元5町会が反対表明 | |
6月5日 | 「池袋場外車券売場設置反対緊急区民大会」開催 | |
6月12日 | 平沼赳夫経済産業大臣に3度目の直接要請 | |
9月23日 | 反対連絡協議会が「青空審査会」開催 | |
10月7日 | 中川昭一経済産業新大臣に設置不許可を直接要請 | |
11月17日 | 設置計画予定地の地元町会臨時総会で設置反対決議 | |
12月 | 設置計画の撤回を求め管理施行者の7市訪問、22日秩父市長が「反対」を表明 | |
平成16年 | 6月14日 | 「2年間いまだに不許可にならない池袋場外車券売場の設置に反対する区民大会」開催 |
8月4日 | 中川経済産業大臣に2度目の要請行動 | |
9月24日 | 「場外車券場建設予定地」現地看板撤去される | |
平成17年 | 11月28日 | 計画地事業者、場外車券売場の設置撤回を正式表明、ヤマダ電機出店計画発表 |
平成18年 | 4月12日 | 「池袋駅周辺・主要街路沿道エリア地区計画」都市計画決定、建築物等の用途制限として馬券・車券売場等の建築を禁止 |
5月15日 | 二階俊博経済産業大臣に設置不許可・申請取下げ指導を直接要請 | |
平成19年 | 3月30日 | 「池袋場外車券売場設置断固反対」の懸垂幕撤去 |
11月6日 | 「池袋東口場外車券売場設置反対連絡協議会」解散 |