豊島区の平成史を彩る様々な出来事を現場レポート
清掃事業の移管と豊島清掃工場建設
佐藤 正俊
(平成6年 東京都清掃局派遣/10~11年 リサイクル・清掃対策室 清掃移管担当課長/12年 清掃環境部 リサイクル推進課長)1 清掃事業との出会い
私は平成30年3月で豊島区を定年退職し、4月からは社協の事務局長となりました。
思い起こしますと豊島区での22年間の管理職生活の中で、様々な業務を担当し、本当に地方行政の業務が多岐に渡る事を実感し、また、それまで誰もやったことの無い仕事も沢山担当しました。その中でも最も思い出深いのが、清掃事業の移管業務です。
私と清掃事業との出会いは、平成5年に遡ります。管理職試験に合格した後、当時の高橋職員課長から「佐藤君、来年度は清掃局に行ってもらうよ」と言われたのです。
都区制度改革の過程で、平成6年度に23区から研修生を東京都清掃局に派遣し、翌年の平成7年度から清掃事業を23区に移管する構想があることを、初めて知りました。
都区制度改革の一環として清掃事業が23区に移管された経緯は、「平成12年都区制度改革の記録(財団法人特別区協議会発行)」に詳述されており、概要は以下のとおりです。
【清掃事業移管の主な経緯】
平成2-5年度 | ① 第22次地方制度調査会は「都区制度の改革に関する答申」(平成2年9月)を出し、清掃事業移管等に関する基本的方針が示されたが、清掃事業の移管については、職員団体や関係事業者との「意見の一致が」必要であるとされた |
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② 特別区は答申を基に、清掃事業の収集、運搬を区に移管する内容の「都区制度改革に関する中間のまとめ」(平成4年10月)を発表した | |
③ こうした状況を踏まえ、都知事は都議会で「都区制度改革を平成7年4月に実施する」との考えを示す(平成4年12月) | |
④ 都は区長会(平成5年5月)に、労使協議により、特別区は収集、運搬のみならず処理、処分まで責任を持つべきだとする共通認識を報告する | |
⑤ 特別区は清掃事業の実態調査や平成6年度からの清掃局への派遣研修の実施などを内容とする「第3次行動計画」(平成5年10月)を策定する | |
平成6年度 | ⑥ 区長会は「特別区における清掃事業の基本的あり方」(平成6年4月)で、区移管の対象は従来案の収集、運搬だけでなく、処理、処分までに責任を持つという、自区内処理の原則を提示する |
⑦ 都は清掃事業の全てを区の事務として位置付ける「特別区における清掃事業の実施案」(平成6年6月)を提案し、区長会が了承する | |
⑧ 都は「最終素案」(平成6年8月)を示すが、移管の時期は平成12年とし、清掃業務に従事する職員を一定期間都職員の身分のまま区に派遣するとし、基礎的自治体の法制化の記述削除など、区側が受け入れがたい内容となる | |
⑨ 区長会は基礎的自治体として位置づける最後の機会ととらえ、特別区の基礎的自治体法制化を求める要請書を付し、都側提案を受け入れる(平成6年8月) | |
⑩ 「特別区制度改革に関するまとめ(協議案)」(平成6年9月)を都区合意する | |
⑪ 都と清掃労組は「清掃事業の特別区への移管に関わる覚書」(平成6年12月)を確認する | |
⑫ 都知事は「都区制度改革に関するまとめ(協議案)」と「清掃事業の特別区への移管に関する覚書」を自治省に提出し、法改正を要請する(平成6年12月) | |
平成7-12年度 | ⑬ 清掃事業の条件整備について都の労使調整が難航する |
⑭ 区側は車庫整備を進めるとともに、区長会、議長会が一致して都議会議員、国会議員に働きかけを行い、都議会の全会派一致の「都区制度改革実現に向けての条件整備に関する決議」(平成9年10月)や自民党都連の「都区制度改革実現総決起大会」(平成9年11月)を開催する | |
⑮ 都知事が自治大臣に平成10年法改正を要請し受理される(平成9年12月) | |
⑯ 国会で「地方自治法等の一部を改正する法律」(平成10年4月)が可決、成立し、清掃事業の区移管が決定する | |
⑰ なお、清掃事業に従事する職員は平成18年3月末までは都からの派遣職員としての身分を有するものとされる | |
⑱ 平成12年4月1日、清掃事業が移管され、23区が清掃事業を実施する |
2 清掃局派遣の1年間(平成6年度)
平成6年当時は、こうした清掃事業を巡る協議の真っただ中で、清掃労組や清掃局の職員もほとんどが移管に反対でした。移管反対の嵐の中に、突然23区の派遣研修生がまるでパラシュート部隊のように、東京都清掃局の主要部署に送り込まれたのです。
国の第22次地方制度調査会答申を出発点として、当初は清掃事業の「収集、運搬」のみを区移管するという流れから、都、清掃労組、区長会が激論を交わし、「収集、運搬」だけでなく、ごみの「処理、処分」までを含めた全清掃事業の移管を、自区内処理の原則として区側が受入れるという、ギリギリの調整がまさに平成6年に行われていました。
清掃局に派遣された23区の研修生も、区長会が開催される度に、まるで嵐の様に目まぐるしく変貌する状況変化に翻弄されていました。
当の東京都清掃局は年間の事業予算が約1000億円、職員数は約1万人の巨大な組織で、23区に代わってごみの収集、運搬、処理、処分を行っていました。
また、ごみの収集作業を行う数千人の現業作業員やごみ収集車の管理、可燃ごみを焼却する先進的な清掃工場を数多く保有し、また不燃ごみを破砕、分別、減量処理する大規模な処理施設も管理し、そして焼却、分別処理したごみを埋め立てる広大な東京湾岸の埋め立て処分場も管理、運営しています。このような巨大な清掃事業の機能を保持しつつ、膨大な人員も含めて23区に分割するような移管が本当に可能なのか、平成6年当時は誰もが半信半疑だったのではないでしょうか。
23区の研修生は、ごみ減量を推進する総合対策室、ごみ収集の司令塔である作業部、ごみ収集職員が所属する清掃事務所、清掃車の車庫である清掃事業所、清掃工場を統括する工場管理部、東洋で最大の清掃工場である江東清掃工場、工場建設の最先端部局である工場建設推進室、ごみ処理の最終処分場である東京湾岸の埋め立て処分場、そして清掃局の予算や人事を切り盛りする経理課、人事課など、清掃局の主要な部局に万遍なく配置されました。
1年間の派遣研修は、日常業務をこなしながら、膨大な清掃事業の専門知識を隅から隅まで調査、研究しつつ、毎月1回、清掃事業に関するレポートを作成し、年度末には各派遣研修生がそれぞれの業務分野について、区移管後の清掃事業の教科書となる詳細マニュアルを作成するという、非常にハードな日々でした。
当時は増大するごみ量に清掃工場の焼却能力が追い付かず、安定した事業運営が難しい時期でもありました。そのため巨大な清掃事業を23区に分割し、安定的に運営していくためには、各区で清掃作業員が常駐する清掃事務所や、清掃車両の車庫である清掃事業所を独自に整備する事以上に、年末年始などごみ量が増大する際の各清掃工場で焼却する可燃ごみ量の搬入調整が、非常に重要な課題となります。
また数千人を超える清掃作業員の各区への身分切替えをどう行うのか、各区の事業実施に際し、条例制定や各区ごみ処理券の発行、許可制度の担当組織の整備など、これまで清掃局で一元的に管理していた業務を、全て23に分割しなければなりません。
当時はこうした無数の課題を整理するだけでも、大変な労力を要しました。そして、その苦楽を共にした23名の第Ⅰ期派遣生との親交は、今も続いています。
その後、制度改革を推進する当局側と反対する清掃労組のギリギリの攻防の末、ようやく平成6年の年末に、平成12年まで清掃移管を延期するという都区合意がなされ、それまでに移管準備を行う事で、波乱万丈の平成6年は幕を閉じます。
都区合意に基づき、東京都清掃局の清掃事業は、23区が個別に実施するごみ収集、運搬事業と、清掃一部事務組合が管理、運営する清掃工場等と、東京都が管理、運営する東京湾岸の埋め立て処分場の、大きく3つに分割されることになりました。
3 清掃移管担当係長としての1年間(平成7年度)
私は1年間の派遣研修を終えた後、豊島区に戻り、清掃移管の担当係長となりました。
当時の実感としては、清掃労組などが移管に大反対する中で、よくもまあ都区合意にまで漕ぎ着けたなあと云うのが偽らざる感想です。こうした状況を成し遂げられた理由のひとつは、区側が粘り強く強固な意志を貫き通し、あらゆる手段を行使し、区議会や区長会が一枚岩となって区民を巻き込んだ運動を盛り上げた成果だと思います。
しかしながら移管準備に入っても、都区が合意した「都区制度改革に関するまとめ(協議案)」や「清掃事業の特別区への移管に関する覚書」に基づく清掃労組の強硬な反対運動が続けられており、23区は清掃事業の自区内処理の原則に則り、各区の清掃車庫整備や、独自の清掃事務所建設などの難問を突きつけられていました。23区が共同設置する清掃一部事務組合、清掃協議会の立上げも、非常に大きな調整課題でした。
また豊島区では平成3年に策定された清掃工場建設計画に基づき、豊島地区清掃工場の建設に関し、有害なダイオキシン対策、清掃工場建設協議会での対応、地元の反対住民との対応なども困難を極めていました。毎月1回、反対派の住民との話し合いがあり、次回の日程を承諾するまでは帰らせてもらえません。夜中の10時を過ぎるのは当たり前で、終了時間が深夜の午前2~3時を回った事もあります。
あの頃が一番辛い時期で、我々豊島区の職員が毎回々々、建設反対派の無理難題に誠実に対応を続けた結果、良識ある区民は、外部から来た強硬な反対派から少しずつ離れて行った様に思います。どんな困難な状況にも決して怯まない、当時の藤好移管担当課長の強靭な精神力には只々敬服するばかりでした。
当時は、可燃ごみ量の増大に伴い清掃工場の増設が喫緊の課題で、東京都は全力で清掃工場建設に取組んでいましたが、建設地域の住民の反対運動は非常に強硬で、清掃工場建設は大変な難事業となっていました。そのため東京都も優秀な精鋭人材をつぎ込み、全精力を傾注して工場建設を推進しました。清掃工場建設に反対する地元区も多かったのですが、清掃工場は迷惑施設であると同時に、都市部には必要不可欠な社会的インフラであるとして、豊島区は積極的に清掃工場建設に協力します。その中心的な人物が藤好課長で、当時の清掃局からも絶大な信頼を寄せられていました。
こうした経過を経て平成7年10月に着工し、平成11年6月に竣工する豊島清掃工場には、23区初の取組みが数多く盛り込まれています。まず他の清掃工場と比べ狭小で不整形な三角形の敷地にもかかわらず、十分な焼却能力と維持管理性を担保する日量200トンの流動床炉が2機設置されています。当時、燃焼管理が難しく導入例が少なかった流動床炉は、縦型のため狭小な敷地に適しており、2炉あればメンテナンス等で1炉休止中でも、もう1炉を稼働させる事が出来ます。また、ゴミ収集車の出入りで道路が混雑しないよう、通常1つしか無い進入路が2ケ所あり、そして清掃工場の地元還元施設として「健康プラザとしま」を設置し、なおかつ池袋駅からのアプローチとして、JR山手線と埼京線をまたぐ歩道橋も設置されました。こうした地元の要望に配慮し、23区初の特徴を数多く豊島工場に取り入れたのも、清掃局との確固たる信頼関係を築き上げた藤好課長の功績です。
その後、私は平成8年度に衛生検査課長に昇任しO157食中毒等の対応に追われ、清掃移管の2年前、平成10年4月、前任の藤好課長から清掃移管担当課長を引継ぎました。
4 清掃事業の移管と豊島清掃工場の竣工(平成10~11年度)
清掃移管担当課長として過ごした2年間も、まさに激動の日々でした。平成10年4月に地方自治法が改正され、ようやく清掃移管が確定した後も、移管までの限られた時間的制約の中で、労使協議や都区合意を巡るギリギリの調整が続けられており、週に2~3回東京都や区政会館の移管関係会議に出席し、毎回、山ほどの書類を持ち帰って整理し、区内の関係各課に資料を渡して説明するだけでも大仕事でした。
23区が共同で設置する、23区内の清掃工場を管理、運営する清掃一部事務組合とごみ量の搬入調整等を行う清掃協議会の設立調整も、大詰めを迎えていました。
この間に豊島区の廃棄物処理条例の制定、廃棄物処理計画の策定、豊島地区清掃工場の建設調整と健康プラザとしま建設業務の取りまとめ等も行っていかなければなりません。
区議会の常任委員会や特別委員会にも毎回、沢山の報告をしました。
さらに移管の前年には、平成11年7月に仮稼働した豊島清掃工場と健康プラザとしまの落成式を行い、また数百ページにも及ぶ清掃事業の事務処理基準を都区間で合意し、豊島清掃工場と健康プラザとしまの竣工に際し、維持管理協定等も締結しました。
こうした業務と並行して、清掃事業の移管に伴う23区個別のごみ処理券の作成や、スーパーやコンビニなど流通業界への取扱い依頼にも取り組みました。その他、23区独自の清掃業者の許可制度の創設や、清掃事務所での許可受付体制の整備、清掃関連業者に対する許可制度変更についての説明会の開催など、やる事全てが初めての仕事です。
あの頃の出来事も印象深いものばかりですが、豊島清掃工場の仮稼働直前に工場の巨大なステンレス扉を発注していた大手業者が倒産し、迷惑を掛ける部署にお詫びに回った事や、健康プラザとしまの落成直前になっても特注エレベーターの国家認定が得られず、見切り発車でオープンした事など、本当に綱渡りの場面も多々ありました。
毎日、毎日、仕事が山積みで、こんな状況でやっていけるか不安も募りましたが、諦めずに頑張っていれば何とかなる事を、この時、体得した様に思います。
また多忙な時こそ、優先順位を明確にし、出来る事は直ちに行う、時間に余裕の無いときは目標の到達点を可能な範囲で引下げる、長期の課題は出来るだけ合理的な段取りをするなど、改めて仕事に取組む術や姿勢も再認識出来ました。
余談ですが、当時の東京都清掃局の移管担当副参事は自分の持つ3台の机に、全て1m以上の書類の山を積み上げ、自宅には月に2~3回しか帰らず、毎日、自宅から着替えが届くと言っていました。あの人は今頃どうしているのでしょうか。
そんなこんなで、多少の失敗はあったものの、文字どおり大過なく、平成12年4月の移管の日を迎えた時は、本当に感無量で、安堵の気持ちで一杯でした。
誰もやった事の無い業務を担当するのは、本当に大きなプレッシャーが伴います。しかしながら誰もやった事がないため、多少失敗をしても自分以外には分らない利点もあり、そしてそれ以上に達成した時の満足感は筆舌に尽くし難いものです。
是非、こらから豊島区政に携わる皆さんは、困難にめげず勇気をもって新しい仕事にチャレンジして頂けたらと思います。
なお、都清掃局の概要や、清掃移管の経緯は、前出の「平成12年都区制度改革の経緯」や、東京都清掃局の歴史をとりまとめた「東京都清掃事業百年史」に詳しく記されています。
関連年表
平成3年 | 9月19日 | 自区内清掃工場建設計画、建設用地(池袋スケートセンター)発表 |
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平成6年 | 3月 | 東京都清掃局、豊島地区清掃工場計画地を全面取得 |
4月13日 | 東京都清掃局、「豊島地区清掃工場基本計画(案)」を発表 | |
平成7年 | 8月 | 東京都、豊島地区清掃工場の都市計画決定を告示 |
10月 | 豊島地区清掃工場工事説明会開催 | |
平成8年 | 1月 | 豊島地区清掃工場建設事業、本格工事着工 |
10月 | 上池袋複合施設建設工事着工 | |
平成10年 | 4月30日 | 地方自治法等の一部を改正する法律成立、23区が基礎的自治体に(都区制度改革実現) |
平成11年 | 6月26日 | 「豊島清掃工場」・「健康プラザとしま」落成式 |
平成12年 | 4月1日 | 清掃事業が区に移管、豊島清掃事務所で出庫式 |